第七話

 南山に潜入した忠阿弥ちゅうあみは、上北山行宮かみきたやまあんぐうに至るより手前の河野郷においてあっさり捕縛された。他から隔絶された南山において余所者よそものは早かれ遅かれ発見される運命にあり、厳しい監視体制は南山の嶮と相俟って防御が有効に機能している堅固を思わせたが、忠阿弥とて後南朝の人々と接触を試みるつもりで潜入したのであるから、捕縛されることなどもとより織り込み済みであって、そのばくに就く様子は甚だ神妙であった。

 荒縄でぐるぐる巻きにされた忠阿弥は二宮御座所金剛寺に引き出された。

「いずれの家の者で名はなんと申すか」

 二宮侍臣智荘厳院ちしょうごんいん宝順ほうじゅんが尋問にあたる。

「赤松牢人中村弾正忠貞友が被官人、忠阿弥と申す者。此度こたびは……」

「訊かれたことにのみ答えよ!」

 宝順が一喝した。

「改めて問う。賊徒旧臣がいったい何用でここまで参ったか」

「旧主が室町殿の御頸おんくびを取り奉ったのは無分別の至りで、その悪事を止められなかったのは我等家臣団の過失。そのとがは咎として認めるにやぶさかではなく、今日まで罪科を甘受して参りましたが、浪々の身たる我等の堪忍ももはやこれまで。

 御家おいえ再興の望みも薄く、斯くなるまで困窮し、追い詰められたうえは、かえってみやこを攻め落とし、南帝に供奉ぐぶし奉らんと志したのでございます。

 同心衆三十余名はいま、宇智郡にて入山の御沙汰を今日か明日かと待ちわびてございます。入京の綸旨を賜ったあかつきには先陣切って怨敵相手に死闘つかまつる所存。

 どうか、どうかお取り立てありてみかどにお目通りかなわんことを」

 むろん南朝の人々とて、いまから一五年前に赤松満祐教康父子が足利義教を斬殺した「嘉吉の変」を知らないということはなかった。

 加えて事の真相は不明ながら、それより二年後の「禁闕の変」においては、討手を禁裏に手引きしたのは赤松牢人だったという噂がまことしやかに囁かれた経緯もある。二宮をはじめとする後南朝の人々が、忠阿弥からの唐突な申し出の虚実を見極めかねたのは無理からぬ話だったのである。

 忠阿弥は斬られこそしなかったが、縄目もそのままに土牢へと放り込まれた。

 赤松牢人を名乗る者の出現は伯母谷の橘将監へも即日もたらされた。近年病に伏すことが多くなった将監であったが、少しばかり体調が良かったこともあり重い体を引き摺りながら河野郷まで赴いて、土牢に閉じ込められた忠阿弥を自ら尋問することとした。

 忠阿弥の申しようは先日宝順が尋問して答えた内容から何も変わらず、将監も他と同様に申し出の真偽を見極めかねた。

(困ったことだ……)

 苦笑いを禁じ得ない将監。

 数的劣勢を覆すために当方に転じる敵勢力の出現を待つ、というのは、他ならぬ将監自身が従来より提唱してきた方針であった。だというのに、いざそういった者が目の前に出現した途端、疑心暗鬼にとらわれて受入の可否判断を下しかねている自分がいる。

「偽装降伏の疑いが拭いきれない」

 そう言って斬り捨てることも出来る。実際結論を出せないことについてあれこれと考えを巡らせるよりも、それがいちばん手っ取り早い決断のようにも思われる。

 しかし味方に転じようという者の出現を待って蹶起すると公言して憚らなかった手前、忠阿弥を斬り捨てるのは難しい決断であった。

「いざ味方しようという者が現れた途端、将監はその者を斬り捨てた。将監ははじめから京を奪還するつもりなどなかったのではないのか」

 忠阿弥を斬り捨ててしまえばこういった噂が立ちかねず、そうなってしまえば将監は、虚言を労し人々に辛苦を強いただけの騙り者として殺されてしまう恐れすらあった。

 忠阿弥の供述に客観的事実が多数含まれていることも厄介であった。

 嘉吉の変に端を発する抗争の過程で赤松家が滅ぼされたことも真実、ために赤松牢人衆が京において苦心惨憺を強いられていたことも真実。

 それどころか忠阿弥の申し出に含まれている嘘は「南帝に供奉して京に攻め入る」云々の内心に関わる部分だけといってよかった。これを暴こうと思えば拷問にかけて糾問しなければならないが、そんなことが他に漏れ伝わってしまえば本当に味方に転じようという者の志を挫くことになる。

「南方の誘いに乗って出頭すれば拷問にかけられる」

 こんな噂が広まれば味方に転じようという者がいなくなってしまうだろう。

 要するに忠阿弥の申し出を虚言と断定できる客観的要素はなんらなく、将監は赤松牢人衆の降伏の虚実を完全には見極められないまま、好むと好まざるとに関わらず、これを受け容れるしかなかくなってしまったのである。

 とはいえ南朝における最終決定権者は将監ではなく帝(一宮)であらせられた。

 将監が帝に事の顛末を言上すると、帝は御自ら忠阿弥を尋問し、供述の真偽を見極める旨のたまった。

 しかし俄に可否判断を下すことができない事情は誰が尋問しても同じであった。忠阿弥の虚言を見抜こうという南山の人々が必死なら、単身敵中に乗り込んで舌先三寸で敵を信じ込ませようとしている忠阿弥はそれを上回って必死だった。

 やはり南山の人々は赤松牢人を受け容れるしかなかった。

 

小谷與次號忠阿彌、以隠形之姿、數ヶ度參御息所、就種々陳申、兩宮御氣色雖漸和、尚以大勢者御隔心之間(後略)

(小谷與次、忠阿弥と号し、隠形おんぎょうの姿を以て数ヶ度御息所に参り、種々について申し陳べ、両宮御気色ようやく和らぐといえども、尚以なおもって大勢は御隔心の間)


 受け容れはしたが、赤松牢人忠阿弥に対し容易に警戒心を解かなかった後南朝の人々の様子が「南方御退治條々」に生々しく描かれている。

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