第二話
後小松天皇による北山第行幸を境に出世街道を驀進する義嗣。その驚異の官歴をここらあたりで眺めておきたい。
応永一五年(一四〇八)三月四日の
この異例の出世は既定路線だったものか、三月九日には義嗣に対し次期将軍就任を人々に強く推認させる「新御所」号が附されてもいる。このころ既に嫡子
「だいたいあなたがしっかりしてないからこういうことになるのです」
栄子は二人きりになった寝所において、義持に対する不満を隠そうともしなかった。
痛いところを衝かれた義持は黙り込むしかなかった。
「いまから北山第に行ってきてください」
口を
「いまから? 無茶を言うな。もうとっくに日は暮れて……。父上も迷惑であろう」
目を丸くする。
「夜だの昼だのそんなことは義量には関係ありません。いまから北山第に行って、あなたの次は義量だとハッキリ北山殿(義満)から言質を取ってきてください。こんなことになってしまったのはあなたのせいなんですよ」
「馬鹿をいうな。そのような出過ぎた真似。我らはただ父上の仰せに粛々と従っておればそれで良いのだ。それこそが父に対する……」
「また
栄子は呆れたようなものの言い方で義持得意の決まり文句を許さなかった。
義嗣が従五位下叙位を遂げたまさにその日、義持の同母弟で義嗣と同年だった春寅(のちの足利義教)は得度し、義円の法名を授けられている。これにより春寅は正式に次期将軍候補から外されたのである。
――寺僧に手を引かれながら寺の門をくぐる義量の寂しげな背中。
父の命令ならば仕方がないではないか、とするのは建前に過ぎぬ。その結果、我が子義量が春寅同様のわびしい運命を辿ることを是認できるほど義持自身も枯れてはいない。
子の栄耀栄華を望まぬ親がいるものか。
その願望はさながら、長雨を受けて次から次へあふれ出す賀茂川の水の如くであった。一度あふれ出してしまえば、真っ黒な濁流はなにを以てしても抑えることができなかった。
洪水なんぞ堤防で抑え込めばよいではないか、とするのは現代に生きる我々の独善に過ぎぬ。当時の重層支配的社会構造においては土木工事のための大動員など望むべくもなかった。端的にいえば一人の人間に対して幾人もの主人が存在するような社会だったのであり、これら複雑な権利関係を排して一元的に支配権を行使するなど、如何な室町殿の権勢を以てしてもそんなことは不可能だったのである。
インフラ整備ができないとなれば、いきおい天象の平穏を求めることになる。時の為政者が異常気象対策と称してせっせと寺社をこしらえたり祈祷を命じたのはこのためだ。時代が古く無知だったから迷信にすがったわけではない。努力のベクトルが間違っていただけで、防災の意識は為政者にもあったのである。
話がそれたが、義持にとっては人間本来の有する願望と賀茂川の水は同じ性質のものであった。いずれもあふれ出す前に抑え込んでしまうことが肝要であった。祈る以外に抑え込む手段がないという点でも共通している。
剥き出しのまま放たれる栄子の言葉は、祈りにすがってでも願望を抑え込もうという義持の心を容赦なく掻き乱したのであった。
それでも他ならぬ栄子の言葉であればはぐらかして許してやることもできた義持だったが、赤の他人とあっては話は別だった。
義持、義嗣がそれぞれの従者を引き連れて北山第に伺候したときの話だ。
「先の舞御覧における新御所の笙演奏は、それはそれは見事でおじゃりました」
そう口火を切ったのは
「
持光の発言を受けて笑みを浮かべる日野康子。上座の義満も満足そうに見える。
康子は義持正室だった栄子の姉であり、義満の後室に入った女性である。このころまでに時の後小松天皇は、父である後円融天皇と生母通陽門院
「天皇一代のうちに
との義満の強弁によって天皇准母として立てられ、権勢絶大なるを誇っていた。
その康子は義嗣だけでなく、弟である日野持光をも猶子に迎えていたから、日野持光は康子を介した義嗣の義兄弟であり、義嗣近臣団の有力な一員だったわけである。
北山第行幸の話題でひとしきり盛り上がる一同。当時その場にいなかった義持は疎外感を隠しながら作り笑いを浮かべるしかなかった。そして持光が放った次のひと言は、その義持の表情を凍り付かせるに十分だった。
「帝に笙の音色を馳走した新御所こそ次の室町殿に相応しい」
「これこれ、義持殿の御前でなんと気の早いことを、おほほほほ」
康子がすかさずたしなめたが、持光が独断でここまで踏み込んだ発言をするわけがなかった。事前に康子から言い含められ、義満の面前で敢えてした観測気球的発言であることは間違いなかった。肝心の義満は無反応を決め込んでいたが、その否とも応とも言わぬ態度も、義持を不安にさせた。
(父上は何故、なにも言ってくださらんのか)
と。
もっとも持光がこのような発言に及ぶことは義嗣には知らされていなかったものと見える。聞き逃したような振りをしながら居心地が悪そうに俯く義嗣の所作が、義持にとっては唯一の救いだった。
義持は持光をものすごい形相で睨み付けた。その鋭い視線に気付いた持光は、気の毒なくらい目を泳がせたのであった。
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