第七話

「のう、猷秀ゆうしゅう

 弁澄べんちょうの、殊更ドスを利かせた野太い声で呼び止められては

「へっ、へへぇ~」

 縮こまって頭を下げるしか出来ない猷秀。

「のう猷秀。われぁいつぞや、わしの頭にようも痰唾ひっかけてくれたのう」

「そ……そないなこと、ありましたかいのぅ……」

 すっとぼけてその場を切り抜けようとする猷秀の目の前に、ちょっとした木魚より大きなあの拳が突き付けられる。

「ひっ……!」

 思わずすくむ猷秀。

「生ぬる~い痰唾が風に吹かれて冷えていくあの気色悪い感触、わっしゃ今でも忘れとらんで。まぁ、室町殿の御意向に免じてゲンコツだけは堪忍したろ」

 将軍より御教書が出され、山門は猷秀を殺さないと約束したことを山門使節のひとりである弁澄が知らないわけがなかった。

(殺す以外のことだったらなにやっても良いんだぞ)

 弁澄はそうやって恫喝を加えているのであった。

 かつて散々いじめ倒した義円が、いまや天台座主どころか将軍に昇ってしまったのだから、弁澄にとってはなにもかもが気に食わない世の中になってしまっていたのだろう。なまくら刀でいたぶられるように苛立ちをぶつけられるくらいだったら、いっそ昔のようにゲンコツでぶん殴られた方が猷秀にとってはまだマシだった。

 山門に帰ってからの猷秀は万事こんな調子で、かつてのような羽振りのよさは既に失われていた。掃いて捨てるほどあった銭は、義円の傳燈相承式でんとうしょうじょうしきや、還俗して将軍に昇った義教の政務のために献上され、いまや猷秀の手許にはほとんど残ってなかった。

 なので猷秀は明賢みょうけんなどに

「宝幢院の修築はどないなっとりますのや」

 と迫られても、もう昔のように証文をちらつかせながら黙らせることが出来なくなってしまっていたのだった。

 こんな風なので、猷秀が再度山門を逐電することになるのは当然の帰結だった。しかしここで猷秀が逐電した行為は山門側を勢いづかせることになった。

 義教が御教書を発して山門が神輿しんよを帰座させたのは永享元年、いまから四年前の出来事であった。猷秀は御教書に基づいて身の安全を保証され、光聚院に帰還したのであるから、その猷秀が再び逐電したということは、永享元年の御教書に基づいて締結された幕府と山門との和睦が破れたことを意味していた。状況は永享元年当時の、嗷訴前夜にたちまち逆戻りしてしまった。

 永享五年(一四三三)七月、山徒多数が比叡山根本中堂に集っていた。その中心にいるのは現下延暦寺で最も力を持っている山門使節、金輪院こんりんいん弁澄べんちょうそのひとである。弁澄は汗みどろになりながらときおり拳を突き上げて大衆だいしゅどもに呼びかけていた。

「猷秀は先年来、宝幢院修築のためと称して各院坊から銭を集めておきながらそれをわたくしし、あまつさえ自ら釈迦堂関務を望んでおきながら関銭だけを持ち逃げし、修築もせず朽ちるに任せておる」

 弁澄がひと息吐くと、大衆は

「尤も、尤ものことよ!」

 と声を揃えた。

 弁澄は続けた。

「信じがたいことに猷秀は、銭を集めるために寺領を押領し、これを担保に借銭を重ねていたことがこのたび新たに発覚したのである! 寺領は国家鎮護の祈祷、追善供養、その他もろもろの仏事を滞りなく執行するためのもの。それを担保に私腹を肥やすなど御仏も恐れぬ天魔の所業!」

「応! 尤もよ!」

「山門奉行飯尾為種は我等の訴えに耳を貸すことなく猷秀の横暴するに任せ、赤松播磨(満政のこと。このころ上総介から播磨守に任官していた)は理非なく猷秀に味方し図に乗らせるばかりで、佞臣が当御代(義教治世)の御政道を汚すはこれ天意にあらざるなり!」

 山門側の訴えを退けた飯尾為種や、猷秀の身辺警護に最も熱心だった赤松播磨までが、いまや山門の憎悪の対象になってしまっていた。

「かくなる上は永享元年の御教書はなくなったも同じ。日吉七社より神輿を引き出して当時を再現し、猷秀他佞臣の排斥を室町殿に訴え出るべし! 如何!」

 弁澄が発すると、大衆はおのおの拳を突き上げて嗷訴に賛同したのであった。

 大衆が列を成して山門を下りる情景は、京からもよく見渡すことが出来た。心理的に抗いがたいもの(神輿)を担いだ武装集団が徐々に京に近づいてくる様は、当時の人々にとっては恐怖以外の何ものでもなかっただろう。

 伏見宮ふしみのみや貞成さだふさ親王が書き残した『看聞日記かんもんにっき』は当時の世相を知る上で欠かせない第一級の史料であるが、このときの嗷訴の様子が生々しく描かれており興味深い。

 山徒は神輿のみやこへの乗り入れ(これを「神輿振り」という)の構えを見せながら今日か明日かと心理的圧迫を京の人々に加えつつ、当時の社会的有力者に宛ててであろう、嗷訴に及んだ理由を箇条書きにして送付している。


一、猷秀が借金を重ねて寺領を押領したこと

一、山門奉行飯尾為種が聖具の一部を押領していること

一、猷秀の主張は間違っていること

一、飯尾為種が管領を飛び越えて将軍に親裁を仰ぐのは法に背いていること

 などを糾弾したうえで

一、猷秀から銭を回収し、宝幢院を修築すること

一、山徒の手により猷秀を処刑させること

一、釈迦堂関所の損傷具合を(幕府役人が)実際に見て確かめること

一、赤松播磨を流罪とすること

一、飯尾為種身柄も山門に引き渡し、処置を委ねること


 全一二箇条のうち、猷秀や飯尾為種、赤松播磨に関する糾弾並びに要求事項が実に九箇条にも及んでいることから、彼等に対する山徒の憎悪の度が自ずと想起されよう。

 この間、貞成親王の元には内裏から

「火事用心のため」

 と称して「御葛」ひと箱が下された。財産の分散疎開である。社会不安と放火はいつの時代もワンセットだ。

 幕府は、案の定これを機に蜂起した近江坂本の馬借車借(こういった連中にも、当然延暦寺の息がかかっている)に対応するため糺河原ただすがわらで布陣を強いられ、交代で暴徒の入京を防がねばならなかった。馬借車借の接近と相前後あいぜんごして諸大名は室町殿の元に、公家は内裏や仙洞御所(上皇の御所)にそれぞれ参集し、酷い混乱を来していた様子が、伝聞という形ではあるが、『看聞日記』に記されている。

 義教の元には、いつ果てるともしれぬ対陣で疲弊する諸大名から、事態打開を求める声が頻繁に届けられていたはずである。『看聞日記』永享五年閏七月八日条によると、幕府側が山徒要求牒状のうち三箇条を認めたことがほのめかされている(その内訳は不明)。

 しかし山徒は重ねて

  猷秀と飯尾為種の身柄引き渡し

  赤松播磨の流罪

 を求めており、もはや要求の眼目は三名の処遇に絞られつつある情勢だった。これに対し幕府は、飯尾為種を尾張に配流、赤松播磨の身柄措置を赤松惣領家に委ねる措置をとっている。山門側は閏七月二五日、要求を猷秀と飯尾為種の身柄引き渡しに一本化した。為種は尾張配流後だったから、事態打開の行方は事実上猷秀ひとりの処置に委ねられたといってよかった。

 猷秀は、いよいよ追い詰められつつあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る