第八話
「もはや対陣は二箇月に及んでおります。
細川持之に迫られ答えに窮する義教。
管領持之が斯く言上に及んだ所以は、その裏に渦巻く諸大名の怨嗟の声にせっつかれてのことと考えるべきであった。確かに山徒のみならず馬借車借どもとの対陣は諸大名にとって利益のない軍事行動だった。防ぎきって当たり前、だからといって戦後、なにか褒美を宛がってやれる性質のいくさでもない。
「し……しかし」
先述したとおり、幼少のころから長く僧籍にあった義教は、幕府内に基盤を持たなかった。右も左も分からない幕府中枢に身ひとついきなり放り込まれた義教にとって、なにくれとなく面倒を見てくれた飯尾為種や赤松播磨守、そして猷秀の存在は心強かったはずた。
義教はそういった股肱のうち既に飯尾為種と赤松播磨守を失ってしまっていた。もっとも両名とも命まで奪われたわけではなく、ほとぼりが冷めさえすれば復権も十分あり得る話だったが、一時的とはいえ義教身辺から姿を消してしまった事実は事実だ。
猷秀は義教にとって、青蓮院在籍時代からの顔見知りでもあった。情誼という点においてはむしろ為種や赤松播磨よりも深い。
(そもそも貴様ら宿老どもを信用出来るならこのようなことにはなっていなかったのだ!)
猷秀殺害を迫る持之を面罵してやりたい衝動に駆られる義教。
管領を筆頭に、幕閣は仲間内での権力闘争に血道を上げており、将軍ですらそのダシに使われかねなかったのが当時の室町界隈の実情だった。義教は宿老のことを誰も信用しておらず、側近の重用に傾斜したのもゆえなき話ではなかったのである。その結果、今日のような事態を招来してしまったのだから責任の一端は持之のごとき宿老も負っている。
そういった責任に無自覚ゆえか、更に迫る持之。
「しかしも
「そ……それは困る」
「ではご決断なされませ。山門は飯尾や赤松播磨の身柄措置については百歩譲っても、恨み重なる猷秀の死罪は譲りますまい」
「なんとか殺さずに済む方法はないだろうか……」
為種や赤松播磨は殺さずに済ませたではないか。同じように山門からやり玉に挙げられている猷秀だけを殺すというのでは道理に合わんではないか。
窮した義教が理屈を口走ると
「それはまぁ、そうですが……」
口籠もる持之。
確かに無用な軍事行動を一刻も早く収束させたいというのは一致する諸大名の総意ではあったが、だからといって山徒や
「たとえ嗷訴に及び押し寄せたとしても、要求の全部は呑まないぞ」
幕府としては暴徒に対しその姿勢を示さねばならず、山徒から処刑や遠流が要求されていた為種や赤松播磨がそれぞれ刑一等減じられた所以はそこにこそあった。
幕府の総意として両名の減刑を決したのに、猷秀だけ殺すというのでは判断に一貫性がないと言わざるを得ない。
猷秀を殺せば確かに事件はそこで終わるだろう。要求を認められた山徒は満足して神輿を帰座させることは間違いなかった。
しかしその結果、
「声を大にして要求すれば幕府は屈服する」
という成功体験を暴徒に与えることになるのである。
本件は、過去の歴代政権が山門の嗷訴に対し、安直な妥協を繰り返してきた歴史の延長線上に位置する事件であった。要求の全ては呑まないとする義教の強硬姿勢は、ひとつの見識として評価されるべき判断だった。
義教はここぞとばかりに畳み掛けた。
「室町殿の名において命じる。猷秀は刑一等を減じ、配流とする。分かったな持之」
持之は命令を拝受するよりほかなかった。
減刑などと言い条、配流とはとどのつまり、法の埒外に人を放り出すことであった。法の庇護を失った受刑者に対してはどんな非道を働こうとも罪科に問われることがなく、たいていの場合受刑者は、配所に達するより前にそこしこから湧いて出てくる地下人にいたぶられながら悲惨な最期を迎えるのが通り相場であった。なかには配流と聞いてむしろ死罪を望んだ罪人もいたほどだったというから、人によっては極刑よりも残忍な刑罰と捉えられていた節がある。
猷秀を配流に処した判断は、幕府が山門に対して譲ることの出来るギリギリの線だったわけである。
義教は当初、配所に越前を指定したが、これは幕閣から反対された。越前では
「これでは刑罰になっておらず、山徒が納得しないだろう」
との指摘だ。
義教はしぶしぶ配流を土佐に変更した。より遠隔ではあるが、土佐もまた三管領のひとつ、細川の分国であった。
「越前を諦める代わりに、土佐に流すので道中の安全を保証してやること」
義教の猷秀に対する気遣いが滲み出ている。
猷秀の軟禁先に細川持之の手の者がドカドカと踏み込んできた。
「
問われた猷秀は心静かに
「左様にございます」
そう答えると、責任者と思しき侍が
「山門寺領を押領した汝の罪は明白である。神妙に縛に就け」
と手短に罪状を告げると、手下は手早く猷秀を捕縛した。
「なにか言いたいことはあるか」
「室町殿、その他幕閣お歴々には大変な辛苦をおかけしました。拙僧が申し上げたいのはそれだけです」
配流の一行は即日土佐へ向けて出立し、これを受けて永享五年(一四三三)八月九日、日吉七社の神輿はついに帰座した。二箇月にわたって政務機能を停止に追い込んだ嗷訴はここに終結したのである。
その後の山門の動向を簡記しておこう。
神輿を帰座させた山徒は、返す刀で園城寺に襲いかかっている。これは嗷訴の眼目として掲げていた赤松播磨守、飯尾為種そして猷秀の処罰がかなったことで、要求のすべてが受け容れられたと解釈した山門側が、嗷訴に同心しなかった園城寺を襲撃した事件であった。義教は園城寺襲撃を奇貨として延暦寺の全山焼き討ちを目論んだらしいが、これは諸大名の諫止を受けて沙汰止みになっている。それでも義教は諦めず、今度は永享六年(一四三四)八月、湖上までをも封鎖して山門に対し兵粮攻めを敢行したが、やはり諸大名が、今度は
「これ以上山門と事を荒立てるなら屋敷を焼いて帰国する」
と言いだしたことで、義教は矛を収めざるを得なくなった。義教の山門に対する怒りははけ口を失い、温存されることとなった。
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