最終話

 宗全の前にずらりと並んでいるのは、太田垣や垣屋といった重臣を筆頭とする山名家臣団。彼等は打ち揃って主人宗全の前に罷り出で、既に財が尽きて戦いを続けられなくなっている窮状を訴え出た。先述したとおり、戦費は戦いを命じられた者が負担するのがこの時代の常識だった。長引く戦いのために、山名家中衆はいよいよその負担に耐えられなくなってきたのである。

 宗全は額に脂汗を浮かべながら

「武人であれば武をもっぱらとし、敵より切り取って自らの財となすべし」

 従前どおりの建前論を押し付けることしか出来ない。

「もうありません」

 太田垣土佐守が短く告げた。お前はまだそんなことを言っているのかと言外になじる。太田垣は続けた。

「足軽どもに奪い尽くされて、みやこにはもう、奪えるほどのものは何も残っていません。したがって敵ももう奪えるようなものは持っていません」

「……」

「京も敵も我々も、皆すっからかんになってしまったと申し上げているのです。このうえいったい、誰から何を奪えと仰せか」

 もう戦いはめにしませんかという、脅迫にも近い勧告であった。宗全は家臣団に脅される形で和睦交渉を始めなければならなくなってしまった。

 宗全には、和睦に先立って話をつけておかねばならないことがあった。ともに戦ってきた味方諸将に対する説得工作であった。

 しかし畠山はたけやま義就よしひろ

「政長をぶっ殺すまで止めない」

 にべもなく断り、大内政弘もまた

「細川づれに大きな顔をされるのは耐えがたい」

 強硬であった。

 そもそもこの戦いは義就と政長の抗争が前提だったし、大内政弘は明との貿易を巡って競合関係にあった細川を倒すことが参戦目的だった。両者とも未だ主敵を倒しておらず、目的が未達成だったから、和睦を渋るのは当然だった。

 宗全は少しでも戦いを有利に進めるべく、こういった諸大名を自陣営に引きずり込んだが、上手く利用するつもりだったような連中が、いまとなっては和睦交渉の手枷足枷になってしまったことは皮肉というべきであった。

 宗全は虚しく説得を諦めるよりほかなかった。

 消沈する宗全のもとに近習がやって来て告げた。

「敵首多数を討ち取ったと申す足軽が褒美を求めて参っております」

 並べられた首の中には、いつぞや褒美を与えた足軽の顔がやはりいくつか含まれていた。宗全は敵首を持参した足軽の頭目に対し、褒美代わりの略奪許可を与えた。足軽の頭目は嬉々として街区に繰り出していった。この頭目も、明日には敵首に連なって、ここに帰ってくることだろう。

 宗全は少しでも戦いを有利に進めるべく、こういった足軽連中を戦場に引きずり込んだが、上手く利用するつもりだったような連中に、逆に利用されてしまっていることは皮肉というべきであった。

 和睦交渉の障害になり果てた味方諸大名といい、宗全の権威を利用して略奪を働く足軽といい、利を求めて狂奔する人々は曾ての宗全そのものであった。ことに足軽は、戦乱に乗じて身代を肥やし、或いは利を求めて腹背常ないという意味で、曾ての宗全そのものといえた。

 あっちにも宗全、こっちにも宗全。みやこのあらゆる場所で狼藉を働き、財を食らい尽くしてもなお止むことを知らぬ宗全、宗全また宗全。

 乞食に毛の生えたような取るに足らない連中は、いまやおのおの足軽に変じて、宗全の如くほしいまま振る舞い、オリジナル宗全にさえ果てなき闘争を強いて苦しめる「小宗全」と呼ぶべき存在になりおおせていたのである。

「おそれながら……」

 またぞろ近習が告げた。

「今度はなんだ!」

 苛立ちを隠せない。

「太田垣土佐守殿他が出仕いたしております」

「……ひぃえぇぇぇ……!」

 これまでどんな難敵に出くわしても決して上げなかったような悲鳴を、宗全はこのときばかりは上げた。

「和睦交渉はまとまりましたかな」

 にじり寄る太田垣。

「そ……その儀はしばし、しばし待て……」

 焦燥、困惑、恐怖。

 これまで陣中において決して覚えなかったような感情に囚われる。自らが拡げた大風呂敷の片付けを迫る家臣団は、いまや宗全にとって敵より怖い味方であった。

(に……逃げなきゃ……)

 恐るべき敵を前にして、その場から這ってでも逃げようとしたのは本能の為せるわざか。しかし。

 痺れ、悪心、眩暈。

 思うように動かすことが出来ない手足。どうしたことか。痺れる手に目をやった刹那――。

 暗転。

 つんのめるようにして倒れ込む宗全。

「大殿! 大殿!」

 視界に暗幕が引かれ、慌てふためく周囲の声が急速に遠のいていく。

 これが死か……。


 宗全は病に倒れた。

 残されている諸記録を勘案すれば中風の病(脳血管障害)ではなかったかと考えられている。文明四年(一四七二)正月には宗全死去の風聞が京中に流れたらしいので、宗全が倒れたのはこの時期ではなかったか。

 なんとか一命を取り留めた宗全だったが、文明五年三月に亡くなるまでの間、目立った政治動向は見られないので、病に倒れた時点で、宗全は政治的には死んだも同然であった。

 西軍総大将だった宗全の死は、いくさに倦んでいた人々にとっては終戦を予感させる朗報だった。さらにその二箇月後には東軍の総大将だった細川勝元までが病死(享年四四)したものだから、終戦機運はいやがうえにも盛り上がったが、結局両者の死がもたらしたものは、細川山名両家の単独講和という、戦争全体から見ればずいぶん小規模な一部停戦にとどまっている。

 講和は山名が細川に降伏する体裁がとられた。西軍大将だったはずの山名は降伏するや、今度は東軍先鋒として、昨日まで轡を並べていた西軍に矛先を向けたという。

 総大将でさえも鞍替えを厭わなかったのだから、いかな主君とはいえ家臣に忠節を求められる謂れなどあるはずがなかった。

 乱世が本格的にやってきたのである。

 応仁文明の大乱を語る上で山名宗全の存在を欠かすことは出来ない。管領どころか将軍すらも凌駕して、幕政主導を目論んだ宗全の挑戦なくしてこの大乱は起こりえなかった。

 しかしその一方で、宗全の死が乱の帰趨に及ぼした影響は、開戦前後の存在感と比較すれば、拍子抜けするほど限定的だった。「小宗全」ともいえる足軽どもが諸方に跋扈するなか、オリジナルの存在感が相対的に低下した結果だろうか。

 後年乱世を制することになったのは、三管領や四職ではなく、また守護でも、守護代ですらもなく、守護代被官人にすぎぬ足軽の子だった。

 もし「或大臣」との問答が実話だったとすれば、宗全は百年以上も前に、既にその時の到来を予見していたということになる。

 さすがに「足軽が関白に昇る事態までも予測していた」とまで言うつもりはないが、大筋において言い当てており、慧眼と評すべきであろう。この賞讃を、せめてもの慰めとして亡き宗全に手向けたい。


 ともあれ、乱世はまだ始まったばかりであった。


     最終章『時こそ例なり』 (終)

     『戦国への道』     (完)

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