第八話

 畠山政長が敗北したことで、その後援者だった細川勝元もまた失脚した。盟友政長を見すてる形となり、武名を失ったのである。このような場合、みやこの邸宅を捨てて自領に蟄居するのが通例であったが、勝元は京に留まり続けた。勝元は失った武名を取り戻さねばならず、その方法は合戦以外になかった。

 しかし上御霊社の合戦以降四箇月、捲土重来を期する細川家中衆が頻りに山名を挑発する緊張こそあったものの、管領畠山はたけやま義就よしひろと山名宗全が幕政を主導して京は概ね平穏であった。宗全はここに、自らが主催する山名体制の構築に成功したのであった。

 余談ながら将軍義政の側近だった伊勢貞親や季瓊真蘂きけいしんずいが追放され、将軍権力でさえも著しく後退していたこのころ、もしこのまま山名宗全と畠山義就のラインで幕政を主導しておれば


畠山政長、赤松政則の粛清

細川勝元の追放と聡明丸(後の細川政元。母親が宗全の養女)の擁立


 こういった方針が段階を経て行われただろうことは疑いがない。

 これらが成功したあかつきには宗全は、縁者であり、かつ幼年の聡明丸を管領に据えるべく、その後見の座に据わろうとしただろう。そうなってしまえば現管領畠山義就との対決は不可避である。

 歴史にイフは禁物だが、史実とはちょっと異なる未来を想像しただけでも、宗全の身辺に戦争の気配がつきまとっていたことが分かる。宗全はいまや、そこにいるというたったそれだけのことで戦乱の火種になり得る「室町の歩く火薬庫」であった。

 さて文正二年(一四六七)正月に両畠山が激突した上御霊神社には現在、「応仁の乱勃発地」の碑が建立されているが、通説では同年(二月に文正から応仁に改元)五月二六日に上京全体で繰り広げられた「上京の戦い」こそが応仁の乱の始まりとされている。

 戦争は宗全を大将とする西軍と、勝元を大将とする東軍とに分かれ、短期決戦の機を逸したまま泥仕合の様相を呈しはじめていた。

 戦乱勃発から三年ほど経ったあるとき、関白一条兼良は疎開先の奈良から、久しぶりに京の自邸に一時帰宅することとなった。散発的な小競り合いや放火狼藉こそ日常の風景であったが、最近は市中を焼き尽くすような大規模な戦いもなく、一応の小康状態を保っていた。

 西軍大将山名宗全の被官人や、一条家の青侍が護る牛車に揺られ、御簾の奥から眺める京の風景は、三年前に焼け出され、命からがら奈良へと逃げ延びてきたころからその様相を一変させていた。

 堀川を挟んで東西に別れた両陣営は、それぞれの邸宅の隅に井楼せいろうを建て、それらは一丈二尺(約三・六メートル)から、高いものでは十余丈(約三〇メートル)になんなんとするものまであり、あたかも高さを競うものの如く林立していたが、もとより人殺しのための施設であるからひたすら殺風景なだけで、華やかさとは無縁。

 ひときわ高い井楼の頂上に腹巻姿のむくろが一体。射殺いころされたものか、尺木に寄りかかったまま項垂れるようにして死んでいる。井楼が高すぎるゆえに遺体を回収することもままならず放置されているのである。荼毘に付されることもなく虚しく捨て置かれた骸が、無数のカラスについばまれていた。

 一条兼良は自邸の焼け残った会所かいしょに宗全を迎えていた。

「かかる戦乱の折節、むさ苦しい格好をお許し下され」

 赤糸威あかいとおどしの大鎧に身を包んだ宗全が言うと、兼良は

「否、否。老いてますます盛んなる入道殿よ」

 心にもないおべっかを口にする。故実に通じた関白も、武を前にしては宥和の薄ら笑いを浮かべるしかなかった。

 しかし兼良には、故実に通じているからこそ言わなければならないことがあった。

「して入道殿」

「はは」

「入道殿は南方御一流小倉宮おぐらのみや王子を西陣に迎え入れんと企てていると聞いたが、これはまことでおじゃるか」

 兼良が声を震わせながら訊ねると、宗全はなんの悪びれる様子もなく言い切った。

「はは。仰せのとおりこの宗全、新たなる帝として扶け奉るべく小倉宮王子をお迎え申し上げる所存にございます」

「あ、ああ~!」

 鉄奬おはぐろを塗り重ねた歯を扇で隠すことも忘れ、嘆息とともにその場に倒れ込みそうになる兼良。なんとか脇息きょうそくに寄りかかってその身を支えると、はぁはぁと息をきつつ青ざめながら宗全に言った。

「そもそも現下の持明院皇統は、亡き等持院殿(足利尊氏)が推し戴き、鹿苑院殿(義満)の御計らいによって継承されてきた皇統。山名と申せばその足利を戴いてきた四職の家柄。主家の推し戴く皇統を廃するが如き行いは古今例を聞かぬ。小倉宮末子擁立の件、いまいちど考え直されては如何か」

 兼良が言ったとおりこのころ宗全は、南朝小倉宮の末裔と伝えられていた王子を西陣南帝として迎え入れようと企てていた。新たな秩序を構築して戦局を打開しようとしていたのである。北朝の身分秩序のど真ん中にいる一条兼良からしてみれば、付き合いの深かった宗全の行いとはいえ、いくらなんでも許されない政治工作であった。

 宗全は答えた。

「一応関白殿の仰せは聞きましたが、南方御一流のことにこだわって古今の例を引用するのはよろしくない。今後は例という言葉を、時という言葉に置き換えられよ」

「と……時!」

「左様。時でございます。もし主上が儀式を執行するにあたり大極殿にて行うと仰せであっても、その大極殿が失われてしまえば仕方なく他の殿で行われるに相違ございません。そしてその殿も後世失われればまた別の殿で行われることでしょう。凡そ例というものはその時が例なのでございます」

「……」

「例にばかりこだわって時を知らないから、いにしえの権門勢家もいまは衰微し、武家に辱められているのではございませぬか。もし例にこだわっておればこの宗全が如き匹夫、関白殿に同輩の如き口を利くことなど出来るはずもございませぬ」

「ちょ……待ってたも……」

「そもそも関白殿仰せの例とはいずれの時代の例でございましょう。この宗全の申しよう、恐れ多いことではございますが、この宗全にも増して悪しき者が後世現れないとも限りませぬ。時勢によってはそういった者に媚びねばならぬこともあるでしょう。先々のことを思えばこそそれがしの如き故実を知らぬ夷武者えびすむしゃに手前勝手な例を仰らないことです」

 宗全が紡ぎ出す言葉を前に、関白たじろいで反論なすところを知らず。

「もし時を知るならばこの宗全、不肖なりといえども我が働きを以て主上も関白もきっと扶持し奉る所存でございます」

 斯くの如く言い切った宗全を前に一同白けきってしまい、誰も口を開くことが出来なかったと伝わる。

 この問答は天文二一年(一五五二)成立の『塵塚物語』に収録されており、問答が行われた年月やその相手方、シチュエーションもろもろについて明記されていない。ただ宗全が「或大臣」に滔々と自説を述べ立て、その理屈を前に「或大臣」が押し黙ってしまう状況が記されているのみである。

 実力を重んじる宗全らしいエピソードといえばこれほどらしい話もない。

 実話を元にしていると考えて良かろう。

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