第六話

「ふふふ」

「ははは」

 どちらからともなくこぼれる笑い声。政治も戦争も関係ない二人だけの得がたい空間。互いに取り巻きがいなければ、この生きづらい世の中を、手を取り合って力を合わせながらそれでも生きていく、ごくありふれた兄弟として生涯を終えるはずだった。それがなんの宿縁か、武家の王である足利の家に生まれたというたったそれだけのことで、そんな当たり前の人生がこの二人から奪われてしまったのである。

 もしこの場になんの事情も知らぬ化外の民が入ってきて、義持たちを指差しながら

「お前たちは何者だ」

 と訊ねてきたとしたら、自分たちが武家の王であることや、日本国の朝廷よりそれぞれ従一位と正二位という位階を賜り、征夷大将軍或いは権大納言という職に就いているという事柄を、莫大な量の言葉を駆使して説明しなければならないことだろう。

 しかし二人が兄弟であるという事柄を説明しようと思えば、

「俺たちは兄弟だ。俺が兄であれが弟だ」

 これだけで十分なのである。

 義持にとって兄弟とは、説明するにあたり言葉を重ねる必要がない根元的な関係であった。

 その二人に許された空間がよりにもよってこの廃屋。吹けば飛ぶようなこの頼りない廃屋だけが、共有することを許された二人だけの空間だというのか。

 空はどこまでも高く、見渡す限り国土は続くというのに、二人が素の兄弟でいられる場所がよりにもよってこんな廃屋ひとつに限られているのだと思うと

(室町殿として永年重ねてきた経営の結果がこれか……)

 義持は廃屋の片隅にかがみ込んでいる義嗣の隣へと腰を下ろした。対座して涙を悟られるのを恥じたのがひとつ。いまひとつは、相対して出奔の真意を問い糾すことが目的ではなかったからだ。

 義持は隣り合って座った義嗣の手を握りながら言った。

「なにも言わぬ。戻ってきてくれ」

 めいに叛いて出奔した義嗣に怒りを含んでいないと言えば嘘になる。他の何者かであったならばいざ知らず、誰よりも引き立て、重んじてきた弟だからこそ許せないことがある。

 その一切を許す――。

 義持が言った瞬間、義嗣の手がびくりと強張った。

 しんぼう強く答えを待つ義持。

 ただひと言

「戻ります」

 そう言ってくれれば話は終わるはずだった。

 しかし

「それはできません」

「……なぜか」

 失望を隠しながら訊ねる義持。もしかしたら今度は、義嗣の方が自分の手の強張りに気付いているかもしれなかった。

「私はもう、ひとりではないのです」

 ――やはり何者か取り巻きが絡んでいたのだ。

 身分秩序が固定化されていたこの時代、多くの人々にとって、累進著しい個人の権威や権力に寄生するのが最も手っ取り早い出世の方法であった。将軍家、大名問わず当主の座を巡って骨肉の争いが頻発したのは概ねこの理由による。仕える主人が当主になるかならないかで己が身代が定まるとあっては、主人本人の思惑すら超えて周囲が必死になるのは当然のことだった。

 先述したとおり義嗣は既に義持に次いで正二位権大納言に叙任されており、これは義嗣が極位極官に達したことを意味していた。それは、義嗣に随身する山科教高、嗣教、或いは慈松といった連中から、出世の方法が失われたことと同じであった。彼等が今以上の身代を求めるならば義嗣を将軍に据えるしかない。

 義持は複雑に絡まり合った利害関係を度外視してでも義嗣を許すつもりだったが、

「私には、私を支えてくれた者たちを見捨てることができません」

 自分は許されても従者たちは赦免されないだろうというのである。

 確かにそのとおりだ。義嗣は許しても、その出奔を指嗾したような連中を許すつもりなど、義持には微塵もない。

 義持は黙り込むしかなかった。

 義嗣は続けた。

「それに、兄上はやはり私を許せなくなるに違いありません」

「……そんなことはない。誰がなんと言おうと、そなたひとりわしが庇いきってみせる」

「きっとそういうわけにはいかなくなります」

「なにを言っているのだ! わしはそなたを……」

 誰よりも重んじ、頼りにしているのだ。

 そう続けようとした義持の手を、義嗣は突如激昂しながらはねのけ、その機先を制するようにして言った。

「そうまで仰せなら私を次の室町殿に据えていただけますか! 兄上にそこまでの御覚悟はおありか!」

 ――無理だ。

 極位極官に達したなどと言い条、義嗣がその身に帯びるのは名誉職的栄典に止まるものであった。翻って義持の嫡男義量には、次期室町殿たるべく数多あまたの武臣がつけられており、これは実質を伴うものであった。幕府は既に次期室町殿に義量を据える方針で走り始めているのである。いまさらそれをなんの実権も有していない義嗣に据え直すなど、どだい無理な話であった。そんなことをすれば幕府はとんでもない混乱に見舞われるだろう。

 ――それでも義嗣が帰参してくれるのなら……。

 沈黙は数瞬だった。

「ある! わしはそなたを次の室町殿に据えてみせる! 誰がなんと言おうと! 据えてみせる!」

 言い放つと同時に瞼を閉じる義持。全身の痺れるようなあの感動に、全感覚を委ねようとしたのである。

 ああ、自分はたったいま伯夷はくいになったのだ。国譲りの美を体現した自分は、この瞬間にいにしえの聖者の列に名を連ねたのである。政治の混乱などもう知った話ではなかった。

「……今の数瞬で兄上のお考えが私にはよく分かりました。やはり私は帰参するわけには参りません。いま賜ったお言葉は今生の栄誉でございます。どうかこの首、お刎ね下さりませ……」

 冷たく響く義嗣の答え。

「なぜだ!」

「……」

「この涙を見よ! 断じて嘘ではない!」

「……申し訳ございませぬ」

 あとは義持がなにを話しかけても

「首を刎ねてください」

 そう答えるばかりの義嗣。

 もはや問答にならなかった。

 義持は外に出ると、厚意を踏みにじられた憤懣を隠すことなく、周囲を遠巻きに囲んでいた諸侍に怒号した。

「あのれ小屋に隠れ住まう不心得者を引っ捕らえよ! 不愉快だ! 顔も見たくない!」

 下知と同時に廃屋に雪崩れ込む諸侍。

 逮捕劇はあっという間に終了した。連行される義嗣の顔にはぼろ布が被せられていた。義持が見たくもないと吼えたその顔を隠すためであった。

 義嗣を逮捕した供廻りのひとりが、手間をかけさせやがってといわんばかりに廃屋を足蹴にした。

 メキメキと音を立てながら倒壊する廃屋。

 義持と義嗣。二人だけの共有空間は、取り巻きが放った、たった一発の足蹴で脆くも崩れ去ったのであった。

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