第三話

 たちばな将監しょうげんが南帝を迎え入れた北山行宮きたやまあんぐうは確かに天嶮に立地していた。

 南帝がその御最期に臨まれてのたまわれたとおり、山深く雪深いその地は賊の行く手を阻むに恰好の嶮ではあったが、その困難を踏破するほど強い決意を持った敵の侵入をいったん許してしまえば、峻嶮がかえって味方の仇となり、逃げ道がない袋小路になってしまう点に難があった。

 橘将監が伯母谷おばたにに逼塞したのは、なにも南帝の死に自責の念を抱いて遁世したものではない。それどころかその仇を討つべきまだ見ぬ英主の降臨をいずこに迎えるか、丹念に検分するためであった。

 橘将監にとって行宮予定地は上北山村以外になかった。中岡新兵衛入道等、南朝忠臣数多あまたが根強く残っている地でもある

 上北山村は、北山行宮が立地していた紀州北山より山を隔てて更に北方に位置していた。北山行宮と比較すれば、北朝勢力圏により近いのは上北山村ということになる。

 敵地に接近するわけだから一見すれば危険度が増したようにも思われるが、北山行宮が虚を突かれる形で襲撃された以上、敵勢力圏から距離をおいたからといって必ずしも安穏としてはいられないという教訓を後南朝の人々にもたらした末の決断であった。

 橘将監が上北山村よりも更に北の伯母谷に居を移した所以は、敵勢力圏に接近した新たなる本拠地上北山村を、伯母谷の山々に拠って防御する足固めのためだった。橘将監は、伯母谷を上北山村行宮の外郭そとぐるわと位置づけたのである。

 それでは上北山のいったい何処に行宮をおくべきか。

 中岡新兵衛入道などは

瀧川寺りゅうせんじをおいて他にない」

 そう力説して譲らなかった。

 確かに瀧川寺は、後背にあたる西方に伯母ヶ峯山系に連なる山々を擁し、正面にあたる東側には小橡川ことちがわが南北に流れる天然の要害であった。開基をたどれば、天平てんぴょういにしえまで行き着くとされる格式も行宮とするには申し分ない。

 しかし……。

 その立地をひと目みた橘将監は直ちに難色を示した。

「これでは北山行宮とさほど変わらんではないか」

 正面に流れる小橡川が天然の濠の役割を果たしているのは事実だった。これが東に大きく湾曲しながら、瀧川寺を取り囲むように南北に流れているわけだから、瀧川寺は三方を濠で守られていることになる。

 では、もしも賊がこの困難を乗り越えるほど強い決意を持つ連中だったとしたらどうか。

 事実、北山行宮は連続する山岳地帯を踏破することすら厭わない、強い決意を持った敵に襲撃されたのである。天然の要害だと思われた北山行宮は一転して、伊勢国司北畠や上北山の領主中岡新兵衛入道ですら、すぐには助けに行くことが出来ない無援の孤塁と化したのではなかったか。

 瀧川寺の背後にも伯母ヶ峯の山々が連なっている。いったん敵が川を越えてしまえば退路を山に塞がれる立地上の悪条件は、北山行宮とまったく同じであった。

 しかしそうは言っても他に適当な場所がないこというのもこれまた事実であった。

 瀧川寺の更に西方には、伯母ヶ峯山系の山々を挟んで北山川が南北に流れていた。もし他に候補地を挙げるとすれば北山川流域のいずれかということになるが、万が一伯母谷を抜かれてしまえば北山川流域の諸拠点までは流れに乗って一直線、敵の侵入を防ぐ何らの防御機構もなく、そういった場所に行宮を置く行為は、瀧川寺に行宮を置くより更に悪手というより他なかった。

 結局橘将監は、消去法にのっとって瀧川寺を行宮予定地とするしかなかった。

 橘将監には行宮候補地の選定以外にもやらねばならぬことがあった。いま、後南朝勢力のなかで最も武勇に優れていたのが五〇に差し掛かろうという橘将監であった。中岡新兵衛入道などは壮年のころよりずいぶん腕前は落ちたが、それでも村の若者でこの老入道を打ち負かすことが出来る者は皆無であった。

 兵は寡少で、しかも弱かった。

 橘将監と中岡新兵衛入道は兵を鍛えなければならなかった。就中なかんづく将監が力を入れたのが弓の鍛錬であった。

 将監は北山行宮における攻防戦を思い返していた。

 このような山深い地では騎馬はものの役に立たなかった。事実、北山行宮が襲撃を受けた際には、味方はおろか敵のうちにも騎兵は皆無であった。

 歩兵を中心とした敵は数にまかせ、矢を射かけてくることしきりであった。我に倍する兵力で無数の矢を射かけられた味方は文字どおり射すくめられ、柵や大楯の後ろから身動きの取れないまま容易たやすく賊の蹂躙を許したのである。

 これは謂わば戦訓であったが、ではいまから人を増やして押し寄せる敵を逆に射すくめられるほどの兵力を取りそろえることが出来るかといえば、それなん無理な話というべきであった。

 将監が出来ることといえば、近郷の村々から集めた若者にひととおり弓矢を指南し、そのなかから筋の良い者を抽出して徹底的に鍛えることくらいであった。

 要するに数的劣勢を練度で補おうとしたのである。

 そんな連中の中に大西助五郎という筋の良い若者があった。川上村北塩谷に住まう武士の端くれではあったが、得意とする矢を敵に向かって放った経験はない。野山の鹿や兎を日々仕留める程度が関の山であった。

 橘将監は愛用の強弓ごうきゅうを助五郎に与えた。助五郎は矢をつがえていつものように引き絞ろうとしたが弦はビクともしなかった。

「汝のわざは既にわしを超えている。惜しむらくはその非力である。我が強弓を汝に与える。これを引くことが出来るようになった暁には、汝は天下に二人とない名手となっていることだろう」

 大西助五郎は橘将監伝来の強弓を拝領した。

 来るべき英主の降臨に備えて練兵に励む人々を、結衣が憂いの瞳で眺める。

 結衣が将監に訊いた。

「賊は来ますか」

「必ず来る」

「なぜそう言えますか」

「賊はいま神璽の行方を掴みかねておるが、我等は新主の降臨さえ賜れば明日にでも起つ。そして我等の蹶起は、取りも直さず神璽がここにあることを賊に知らしめることにつながるであろう。

 我等は必ず起つ。なので賊も必ず来る」

「起たなければよいのではないですか」

「結衣はいくさが嫌いか」

「……」

 西の山々に日が暮れてゆく。あたりは急速に暗くなり、夕闇は結衣の不安げな表情を隠してしまったのだった。

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