第二話

「開門! 開門!」

 累代の甲冑でさえ脱ぎ捨て、神璽の入った桐箱と身体ひとつだけでたちばな将監しょうげんが逃げ込んだのは、大和国吉野郡上北山村の中岡新兵衛入道邸宅であった。

 中岡新兵衛入道もまた橘将監同様、長く南朝忠臣として南方御一流に仕えてきた大身たいしんの武家であり、あまつさえ新兵衛入道の娘結衣ゆいは、南方御一流玉川宮に女御として仕え、のち見初められ入内じゅだいしたほどだったから、中岡新兵衛入道一党が玉川宮から得た信頼はひととおりではなかった。

 しかしその玉川宮は幕府による断絶方針に異を唱えて上北山を出御、因州に遷座させられていた。

 また結衣が産んだ王子二人も、幼くして将軍義教の猶子として迎えられ、京都五山の筆頭、相国寺に喝食として入り、いまはそれぞれ梵勝ぼんしょう梵仲ぼんちゅうを名乗っているという以上の消息を将監は知らない。

 将軍猶子などといえば聞こえはいいが、父玉川宮の後ろ盾を失った結果、その意に反して半ば強引に上北山から引き離され、みやこに拉致されたというのが実態であった。

 あるじ玉川宮と、その遺跡ゆいせきを継ぐべき二人の王子まで失った新兵衛入道と結衣の父娘は、息を潜めながら、この上北山でしずかに復讐の時を覗っていたのであった。

 もちろん橘将監も、この父娘の置かれている境遇をよく知っている。

 円胤(護聖院宮義有王)を擁立し、中岡新兵衛入道とは異なる路線を歩んだ橘将監は、南方御一流崩壊の危機に際し、玉川宮だの護聖院宮だのといった、こまごました違いを乗り越えて中岡新兵衛入道を頼ったのである。

 応対に出た小者はにわかに逃げ込んできた将監のただならぬ様子を即座に察し、あるじ中岡新兵衛入道に通知した。

 姿を現した入道は老いた身も忘れて、疲労困憊する橘将監を自ら扶け起こした。

「しっかり致せ将監。いったい何があったというのじゃ」

「北山行宮……陥落!」

「な……なんと!」

「何者か知らぬが不埒者どもが行宮を蹂躙し、奮闘虚しく陥落つかまつった。玉体には共に落ち延び後日を期すべしと言上したが、ただこれを護持してさらに英主の出現を待てとのみのたまわれ、あとは……あとは分からぬ!」

 咆哮と共に将監が差し出したのが、神璽の封入されたくだんの桐箱であった。

「玉体は……」

「行宮の焼け落ちる様を見たのが最後でござる。かしこくも皇統に連なる御身であるから、賊といえどまさか手荒な真似は致さぬとは思うが……」

 そのまさかであった。

 後南朝勢力が北山に行宮を遷した所以は、そこが大和国吉野郡より更に南、山々を隔てた天嶮だったからである。後南朝勢力は、南帝と神璽を擁し、皇統の正統を掲げながら新たな味方の出現を待つ持久戦を仕掛けたわけだが、これを嫌った幕府が、紀州を分国に持っていた幕府管領畠山持国に南帝追討を命じたのが今回の兵乱であった。

 後南朝の人々は思わぬ方角からの攻撃を前に文字どおり裏をかかれて潰乱。おいたわしくも玉体は匹夫の凶刃に裂かれ、御頸おんくびみやこへと送られた。

 南帝は北朝秩序から見れば飽くまで僭称天皇すなわち賊徒扱いであった。南北両朝とも互いに相手を賊徒と非難しあっていたわけだが、それはそれとして、いくら賊徒扱いであっても皇族としての出自が明らかな南帝の御頸をどう扱うべきか。判断に迷った畠山持国は、時の関白一条兼良にその措置を相談している。

 一条兼良もまた御頸を獄門に晒すなどして後南朝勢力を刺激するのは得策ではないと判断し、検非違使の実検に任せ、荼毘に付した後は、遺灰をいずこかへと葬るよう勧めたとされる。南帝御頸が更なる兵乱を引き起こすことを恐れたための措置であった。

 確かに後南朝勢力は、足利幕府という武家の後ろ盾があった北朝と比較して、軍事的には取るに足らない力しか持ってはいなかった。そのことは此度兵乱の帰趨がよく示している。

 しかし賊徒扱いだったはずの南帝御頸を獄門に晒さず、後南朝勢力の更なる蜂起を回避しようとした一条兼良の姿勢からは、その力を見くびっていた様子を覗うことはできない。

 北朝秩序に連なる人々の耳には、現代の我々が想像するよりもずっと大きくはっきりと、後南朝勢力の恨みのこもった息遣いが聞こえていたなによりのあかしであろう。

 いずれにしたところで新兵衛入道も将監も、玉体が無事かどうかすらいまは知らない。ただ最後の様子から察するに、御身が少なくとも賊の手に落ちたところまでは想定する必要があった。

 凶事より旬日を経ずして、南帝の行く末に関わる情報が上北山にも流れてきた。玉体は賊の凶刃にかかり、御頸は獄門にこそ晒されなかったが、検非違使の実検に附されたということであった。検非違使は京の治安維持に当たる朝廷の執行機関だ。つまり罪人と同等の扱いを受けたわけである。

 南帝の非業を知った新兵衛入道の涙が、無数に刻まれた深い皺に吸われて消えた。

(俺の所為せいだ……)

 真っ青に青ざめて中空に瞳を漂わせる将監の表情は、涙に暮れる新兵衛入道とは対照的であったが、それはそれで鬼気迫るものがあった。

「神璽をどうかよろしく頼む」

 将監は神璽を中岡新兵衛入道に託した。南帝がおかくれになった以上、後南朝勢力のうちでこれを護持するにもっとも相応しい人物は、玉川宮の妻、そしてみやこに拉致された二人の王子の母親である結衣以外にいなかった。

「して、汝は何処いずこへ参るのか」

 中岡新兵衛入道に訊ねられた橘将監はただひと言

伯母谷おばたにへ参る」

 そう答えるのみであった。

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