第四話
橘将監にとって重鎮の死は痛手だったが、その間にも
なかでも橘将監がその腕前に惚れ込み、手ずから強弓を与えた大西助五郎はその期待によく応え、かつてはピクリとも動かすことの出来なかった
弓の張力が強いので、脇差というには及ばないものの、ちょっとした小刀ほどの
あるとき
将監は人々に上北山村伯母谷間の往来を課したりもした。
前述したとおり両村は伯母ヶ峯に属する山々に隔てられ、往来は極めて困難であった。
郷村の限られた人数で間道を押し拡げる大土木工事を敢行することなど到底不可能であり、そうである以上、人間の方が道路規格に合わせる必要があった。起伏の激しい間道を頻繁に往来する義務を課し、踏破訓練を重ねたのである。
訓練は昼夜、雨風、大雪、寒暖など、天候や季節の変化を見て随時敢行された。
「わざわざこんな日に山に入らなくても……」
とある雪の日の登山訓練で、こんな愚痴が聞こえてきた。
「常に我等の望む条件で攻め寄せてきてくれる敵ではないぞ」
将監は弱音を吐く郷村の人々を叱咤した。
事実、管領の軍は雪深い山々をぬって北山行宮に攻め寄せてきたのではなかったか。
「まさかこんな日に限って……」
この油断が当時の将監になかったといえば嘘になる。人々への叱咤は、甘かった過去の自分に対する叱責でもあった。
過酷な踏破訓練は人々に、各気象条件に合わせた最適の行軍を染みつかせた。
そんな将監の耳に容認するべからざる報せが届いた。
そもそも南方御一流の祖、後醍醐天皇は後二条天皇の弟であり、若くして崩御された後二条天皇と、その幼い王子に代わる「一代の主」として臨時的に即位した経緯があった。
一方の木寺宮家は後二条流の嫡流であり、南方御一流と同じく大覚寺統に属する宮家であった。
同じ大覚寺統でありながら、南方御一流の断絶方針が依然継続されていたなかで、後二条流の木寺宮邦康王が親王宣下を蒙るというのだから待遇の差は明白だった。
この措置に後南朝の人々が不満を募らせるのは当然のことといえた。
さすが同じ大覚寺統というだけあって、当の邦康王にはこういった後南朝勢力の不満がよく見えていたのだろう。親王宣下という栄誉を蒙るにあたり
「密儀内々に伝え進らすべし(内密に伝達すべきである)」
と異例の要請をしている。後南朝の人々に逆恨みされて、テロの標的にされる後難を恐れたのであろう。
夜陰に紛れ、京都相国寺慶雲院に潜入したのは上北山の郷士、井口太郎左衛門尉、三郎左衛門尉兄弟であった。不意の闖入者に梵勝、梵仲の兄弟は慄いたが、井口太郎はそれぞれ一六歳、一五歳になる若い兄弟をこれ以上驚かせることのないよう、ことさら
「いま天下の情勢をおもんみるに、賊徒
『玉骨はたとひ南山の苔にうづもるとも、魂魄は常に
神祖(ここでは後醍醐天皇)の御遺命にいう忠烈の臣は継体の君を鶴首して待ち望んでおります。どうか御降臨の賜らんことを」
顔を見合わせる梵勝梵仲兄弟。意を決したように梵勝が訊ねた。
「南方に母は……母上はいらっしゃるか」
幼くして拉致同然に連れ去られ寺に入れられた兄弟が、皇位よりも母との再会を望んだとしてなんの誹られる謂れやあらん。
「おわします。神璽とともに我等が堅くお守り申し上げてございます」
「相分かった。では行こう」
慶雲院から梵勝梵仲兄弟が出奔したのは享徳四年(一四五五)二月二八日、木寺宮邦康王が親王宣下を蒙ったまさに同日の出来事であった。
新主の降臨さえ賜ればいつでも蹶起すると豪語して止まなかった橘将監が、その新主となるべき梵勝梵仲兄弟の所在を知っていながら、それでもなお今日まで脱出の手引きを延引し続けてきた所以は、いくら訓練を重ねたところで覆すこと能わぬ賊徒との圧倒的人数差があったからだった。このため、我に転ずる敵勢力の出現を待ち続けていたのだが、それが叶うより先に木寺宮邦康王への親王宣下という許すベからざる政治決定が下されたのである。
将監は今日まで重ねてきた諸準備が、この不公平な政治決定に端を発する感情的蹶起によって水泡に帰してしまうのではないかと少しの後悔を覚えたが、その眼前にはひしと抱き合う母と子二人。
かたや記憶の片隅にぼんやり影を残すだけだった母の姿を今はっきりと目の前に置いた兄弟。
こなた忘れかけていた子のぬくもりをいま確かに両腕に抱いた母。
それぞれの両眼から止め処なく涙が溢れる。
引き別れたときには永劫不可能なのではないかとさえ思われた母子再会の光景を前に、鍛えぬかれて鬼神の佇まいを醸すようにまでなった
(これで良かったのだ。他にどうすれば良かったというのだ)
後悔を振り払おうとした将監に、泣き腫らした目をしながら結衣が告げた。
「さぁこれで私は望むものすべてを手に入れました。これ以上何ものか欲すれば天命に背くことになります。ことに神璽は兵乱を呼び込むだけで、先帝(円胤)の身に凶事が降りかかったのも神璽が身近にあったがゆえ。
あんなものは早々に北の人々に返してしまうがよろしいでしょう」
新主の母の申しようとはいえ、既に蹶起で衆議一決をみていた人々の意向を超えてまで神璽を返すなどあり得ない話であったが、振り払おうとした後悔は、結衣のこの言葉とともに、いつまで経っても消すことのできないシミとして将監の胸の裡に残ったのであった。
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