第43話  去夏〈3〉

 市電に乗ると僕は自分の画材屋に帰って来た。

 ひどく疲れていた。鍵を開け、ドアに掛けた〈close〉の札はそのままにして中に入る。

 ほとんど間を開けず、ドアが開いた。

「すみません、今日はちょっと事情があって、店はお休みしています」

「私はお客じゃありません」

 入って来た人、それは僕の相棒、頼もしきJK、城下来海しろしたくみサンだった――


 真直ぐに歩いて来て僕の前で足を止めると来海サンは言った。

「私に、あなたの今日の行動の一部始終を話してくれるわよね、あらたさん?」

「君、今はまだ学校にいる時間だろ?」

 僕の愚問に来海サンは人差し指を振った。

「甘いわ、新さん。私は探偵助手、あるいは、あなたの相棒よ。だませると思った?」

 そうだった! 彼女は僕の最高の相棒パートナーで立ち位置はワトスンやヘイスティングズよりタペンスに近い。優秀で有能な彼女に隠し事なんて出来っこなかったのだ。

「あなたの昨日の様子がおかしかったから、私、今日は朝から見張っていたの。これは」

 と言って、衣替えを終えたばかり、夏服の白地にピンクのラインの入ったセーラー襟を引っ張る。

「兄貴の目をくらませるカモフラージュよ。兄貴に、私が学校をさぼったと悟らせないためのね」

「ああ、なるほど」

「私、あなたが正午過ぎに店を出た時から後をつけていたの」

「ということは――」

「市電に乗って紙屋町東で降りて、歩くこと3分、個展会場という路地裏の古びたビルに入るのも、そこを飛び出して来たと思ったら、今度は謎の大男に呼び止められたのも目撃したわ。その人物が黒い手帳を掲示したのもね」

「あれが有名な警察手帳だよ」

 僕はもらった名刺を差し出した。


     〈 神奈川県 横浜警察署 

       刑事第1課 強行犯係 刑事 有島六郎ありしまろくろう 〉


 来海サンはピュッと口笛を吹いた。

「わーお、これって本物? お遊びじゃないのね?」

「そうさ、お遊びじゃない。いつものような」

 名刺を僕に返すとまっすぐに僕を見つめて来海サンは言った。

「新さん、刑事に語ったことも、語らなかったことも、全て私に話してくれる?」

 語った部分・・・・・語らなかった部分・・・・・・・・……

 言ったろう? 彼女は鋭い。

 さあ、今度こそ、僕は腹をくくらなければならない。だって、全てを話すこと、それは僕自身にとって決して容易なことではない。全然楽しい話じゃないし――本当なら一生涯、語るつもりはなかったのに。

 取り敢えず、来海サンはゴーギャンの椅子、僕自身はゴッホの椅子に腰を下ろす。

 クソッ、こんな椅子、作らなければ良かった。凄く象徴的で暗示的じゃないか!

 ここに腰掛けた二人の画家は短くも濃密な時間を共に過ごし、そして、決裂した。お互いを(または片一方を)知りすぎたせいだ。

「どこから始めよう。僕と浅井透あさいとおるは美大の同級生だった」

 そう言って僕は話し始めた――


「大学生とは不思議な生き物で、どんなに仲が良くてもお互いの実家や家族の話はあまりしないものだ。僕も、浅井が神奈川県の出身だということぐらいしか知らなかった。浅井は才能のある、面白くてユニークな奴だった。まぁ美大生は皆そうだけどね。

 浅井は植物画を得意とし、もっと言えば、植物画しか描かなかった。

 個性派ぞろいの同級生の中で一番仲が良かった。1年生の頃は夏休みや冬休み、長い休暇にはたびたび一緒にスケッチ旅行をしたっけ。バックパックを背に安宿に泊まって……」

 いざ話し出すと思い出が鮮明に蘇る。

「鎌倉の古刹で偶然見つけた仏像には心を奪われたな! 有名な東慶寺の水月観音像と瓜二つなんだ。日本海の佐渡島にある清水寺せいすいじはその名の通り京都の本家清水寺きよみずでらの精密なミニチュア版で、その堂々たる懸造かけづくりの〈舞台〉には息を飲んだよ。透の方は島のブナ林に現存する白根葵しらねあおいに目を奪われていたが。その花はかつて世界中で咲いていたのに絶滅して現在は日本の数カ所でしか見ることができないんだってさ。  

 島根の美保関みほのせきにある灯台も凄く印象に残ってる。高い岬の先端にあるので灯台自体はさほど背が高くないけど白亜の塔は夢のように瀟洒で、遥かに見晴るかす蒼穹の天、藍色にさざめく海、岬を覆う緑……全てが煌めいている。その光景に魅せられて、僕も透も夕焼けが空を染め、やがて満点の星々がヒソヒソ囁き出すまでその場を動けなかった。でも大丈夫。灯台へ続く岬の入り口には清潔なトイレが設置されているし、崖下へと続くみちがあって、そこからいくつもの小さな入り江へ降りられる。その中の一つ、さざなみが打ち寄せる船小屋に僕らはこっそり潜りこんで野宿させてもらった」

 夢中で話し過ぎた。おしゃべりが過ぎたことに気づいて咳払いをする。もっと気をつけて要約しなければ。

「3年生の時に学年の課題として油絵科の全生徒が新人向けのメジャーな絵画賞に応募した。結果は、その中で一人だけ賞を取った。浅井が突然大学を去ったのはその後だ。昨日、個展の案内状をもらうまで僕はあいつの消息を全く知らなかった」

「だから、あのハガキを見てあんなに驚いていたのね?」

「うん、そう」

「個展会場を出て来た新さんをどうして警察が呼び止めたの?」

「報道されていないが、二か月前から失踪届けが出ている女子中学生と一緒にいるのを目撃されたとかで、刑事が言うには、浅井は未成年者誘拐の容疑者になっているそうだ」

「新さんが3年生の時、応募した絵を見せてくれる? 今もまだ持っているんでしょ?」

 そう来たか! やっぱり来海サンに核心部分を隠し通すことは不可能なのだ。

 かなりの時間、僕は黙っていた。長い沈黙の後で――とうとう僕はうなずいた。

「いいよ、こっちだ、ついて来て」


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