第30話 警告〈3〉
来海サンが戻ってきたのはおよそ2時間後だった。
「遅かったじゃないか、突然飛び出して行ったから、心配したぞ」
彼女は無言のまま、レジカウンター横の壁の前に置いてある椅子――肘掛け付きの水色の方、ゴーギャンの椅子――に腰を下ろした。しばらく膝に置いた自分の手を見つめていたが、やがて顔を上げ、話し出した。
以下、画材屋探偵の相棒、
*
店から飛び出して……あの後、私、追いついた岡田梓さんに声を掛けたの。
「待って、梓さん、お聞きしたいことがあるんです」
「?」
足を止めて振り向いた梓さんに、こう言う場合は率直に言うのが一番だと思って、私は尋ねたわ。
「画材屋に来た慧太さん本人が新さんに伝えたそうです。梓さんから突然別れを告げられたって。それで、私、どうしても、その理由を知りたいんです。何故、梓さんはそんなことを言ったんですか?」
梓さんからの返答はない。めげずに私はもうひと押しした。
「だって、私の眼から見て、お二人は完璧で理想的な最高のカップルでした。それがこんなに簡単に破局するなんて、全然理解できません。この謎が解けない限り、今夜は眠れないと思います」
長い間、梓さんは
「いいわ、私の家へ来る? そんなに遠くないのよ。話しはそこで」
勿論、私はついて行った。
そこは、絵本にあるようなこじんまりとして素敵なお家だった。モルタルのクリーム色の外壁、緑の瓦屋根。魔女が住んでいそうな、ほら、あの肖像画の見本になった、写真の娘さんにピッタリのね。
室内がまたイイ感じなの。
「私は真実を真面目に話すから、あなたに『信じてくれ』とは言わない、ただ、笑わずに聞いてくれる?」
「勿論です」
「私の実の母は不幸な結婚をしたの。17歳で大恋愛の末に結ばれたんだけど、幸福な生活は長くは続かなかった。ザックリ言うと、父(という人)は身ごもっている母を捨てて他の女に走った。要するに母は捨てられたわけ。離婚成立後実家に戻った母は私を産むと、強くしなやかな木〈梓〉って名だけを私に残して自ら命を断ってしまった。無責任にも程があるわよね」
何か言おうとした私を梓さんはサッと手を振って
「そのことはいいの。私は母の顔も知らないんだから。それでね、私を育ててくれたのが
蓮子さんは、それはそれは素敵な女性だった。祖父は若死にしてて、独りで、苦労して私の母を育て上げ、今度は孫の私を育てる羽目になった。それなのに明るくて前向きで、いつも楽しい話しかしなかった。本当に幸せな毎日だったわ。たくさんの絵本や物語を読んでくれた。ケーキやクッキー、ジャムの作り方……肉じゃがやボルシチも最高だったな! クロシェ編みに刺繍、それにギターの弾き方も習ったのよ。
私のカップに2杯目のミント・ティを注ぎながら、
「そんなわけだから、三年前、蓮子さんが亡くなった時、そりゃあ悲しかったけど、寂しくはなかった。だって、姿は見えなくても、ずっとそばにいて見守ってくれてると知っていたから」
梓さんは振り返って壁に掛けてある絵――完成したあの肖像画――を見つめた。その真下のサイドボードにはギターを抱えたカッコイイ青年やランドセルを背負った女の子、浴衣姿の少女……この家で過ごした大切な人たちの写真がいっぱい並んでたわ。一番前にあった銀の
「あれは祖父が撮ったのよ。プロポーズした日、贈った指輪をつけた蓮子さん。蓮子さんはずっとこの指輪を嵌めていたの。それこそ、死ぬまで。息を引き取る前に、外して私にくれたの。以来、私は大切に保管して来た」
写真の横に
「蓮子さんの絵が完成して、御祝いをした夜、慧太のプロポーズに私はYESと答えた。天にも昇る心地だった。このことは慧太が新さんに言った通りよ。問題はここから。今朝、旅行に出る前、私、嵌めて行こうと思って蓮子さんの指輪を取り出したの。そしたら――あの指輪じゃなかった」
「え?」
「すぐわかった。だって蓮子さんの指で煌めいているそれを私は見て育ったんだもの。指輪は全く別物になってた。なんて言えばいい? 灰のよう……枯れて
「慧太は容貌がちょっと韓流スターみたいだから社内でも凄くモテるの。でも、見た目だけじゃないって私はわかってる。彼、気骨のある素晴らしい男性だわ。ということは、今回は私が
「そんな――そんなことって、おかしいわ! きっと何かの勘違い、梓さんの思い過ごしなんじゃないでしょうか? 気の回し過ぎというか、指輪がちょっと古びただけで、全然こだわる必要ないと私は思います」
「他人にどう思われようと、私はこだわっちゃう。これはね、私にしかわからない蓮子さんのメッセージだわ。私に娘――母の二の舞いをさせたくないというサインなのよ」
ふいに梓さんの声が低くなった。
「実はね、私一度だけ、蓮子さんの後悔の言葉を聞いたことがあるの――
小学5年生の夏、蓮子さんと庭で花火をした夜だった。浴衣を着せてもらって凄く嬉しくて楽しくて、興奮しすぎたせいかな、夜中、喉が渇いて目が覚めちゃった。水を飲もうと台所へ降りて行くと蓮子さんが泣いてた。いつも笑顔で明るくて元気いっぱいの彼女が、涙を流しながら浴衣姿の女の子の写真に語りかけてた。私、この時初めて気づいたんだけど、その女の子は母で、その夜着せてもらった浴衣は母のだったのよねー。母の名を呼びながら蓮子さんは言うの」
――
「で、でも――」
流石に、もう黙っていられない、私は声を張り上げて抗弁した。
「そのことと今回のことは全然関係ないですよ。指輪については、きっと目の錯覚です。だって、こんなの、ちっとも科学的じゃないし整合性がない――」
梓さんは首を振って薄く微笑んだだけ。
「だから最初に言ったのよ、笑わないでって。そうね、他人が聞いたら馬鹿げた話だと思うでしょうね。でも私は決めたの。私は祖母の警告に従うことにした。以上よ。さぁ、これで私は全部、ちゃんと説明したわ。この件はこれでオシマイ」
「誰も悪くないのに――」
画材屋の店内、水色の椅子の中で来海サンはつぶやいた。
「慧太さんは誠実で素晴らしい人だと私は思う。梓さんも魅力的で才能に溢れた素敵な女性だわ。でも、いろんなこと――複雑で思いもよらない事情から、実らない恋もあるのね。新さんが恋愛はミステリとは別ジャンルだって言った意味がわかった気がする。ほんと、〈探偵は女に向かない職業〉って古いタイトルがあるけど、その言い方を借りるなら〈恋愛は謎解きには向かないカテゴリー〉だわ」
「いや違う、やっぱりこれはミステリだ!」
「え?」
「謎が解けた!」
僕は叫んだ。
「なんてこった、今回の案件は恋愛系というより、至ってシンプルな、謎解き系ミステリだったんだ! よくやったぞ、名相棒! 君がめげずに梓さんを追い駆け、細かく事情を訊いてくれたおかげで謎が解けたよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます