第20話 少女の心〈4〉
「君が信じた通り、今回の消えた掛軸の件には
「良かった! 絶対、そうだと思っていました」
「池野さんがあれほど動揺し困っていたのは、実は、彼女が
「え」
僕は人差し指を立てる。
「それは全く他愛もない、罪のないものだった。
パッと少年の顔が輝いた。
「あ、雪兎のことですね! ええ、憶えています。掛軸の絵の中のソレと重ねて、母が庭の雪を集めてこしらえたんです。そのことも、風流な〝見立て遊び〟だと言って、風花は凄く喜んでた!」
「池野さんはね、帰り際、茶室からその雪兎の目を――正確には、もう溶けてしまって水に浮いていた
「なんだ、そんなものを? 僕は全然気づかなかった。でも、風花はどうしてそんなことを?」
「記念にしたかったからさ。少女のやりそうなことだろう?」
「一体、なんの記念?」
――だって、初めてのキスだったから。
二粒の赤い実を差し出して、頬を染めて池野風花は言った。
――私、ずっと
膝の上でギュッと両手を握りしめる少女。
――私と漣君は初めてあの絵と雪兎の前でキスしたの。だから、その記念に、大切な思い出として、私、帰る時もう一度茶室に入ってこっそり持ち出しました。襖はしっかり閉めたつもりですが、慌てていたのでそうじゃなかったのね?
「風花……」
少年は真っ赤になって
「な? いかにも少女のやりそうなことだろう?」
微笑みながら僕は静かに続ける。
「だが、この話はここで終わりじゃない。池野さんが帰った後だった。僕が店を閉めようと外へ出てシャッターを下ろそうとした時、駆け寄って来た少女がいた。目を真っ赤に泣きはらしたその人は言った」
――ごめんなさい。とてつもなく悪いことをしたってわかっています。こんなことしていいはずはない。でもさっきはどうしても言い出せなくて……あの二人の前では特に。だって、自分だけがみじめで、つらくて、不幸せで……
「それは」
「そうだよ、
――漣君の家に池野さんが来てると知って、私、物凄くショックでした。その上、池野さんの口から、彼女を漣君自身が呼び出して、二人だけで掛軸を見たと知った……
池野さんが帰るとすぐ、私は茶室へ行って
唾を飲み込み、細い首をまっすぐに上げる。
――どうしてそんな真似をしたのか? 今でもその理由を巧く説明できません。怒りで頭の中が真っ白になって……二人だけでこれを見た漣君と池野さんを困らせたかった? そうかもしれない。復讐と言ったら大袈裟だけど、でも、その時はそんな気がしました。どうして漣が呼び出したのは私じゃなかったの? どうして、私じゃなくて、池野さんだったの? どうして? どうして? どうして?
「大西さんの行為もまた池野さんと同じ、少女らしい想いから出たと僕は考えている。彼女は、初めて覚えたやり場のないの怒り――失恋の痛みと嫉妬心から、咄嗟に絵を持ち出した」
僕は言葉を止めた。少年を見る。
「ここからが僕が、謎解き以上に一番君に伝えたいことだ」
姿勢を正し、ゆっくりと僕は言った。
「僕は女の子たち、どちらの想いもわかる気がする。誰もが――大人になった人たちが全員、過去に通った道だから。僕らは皆、多かれ少なかれ体験する。大人の階段を昇る際、誰かを好きになって、その恋が叶ったり、破れたり……叶ったら叶ったで有頂天になって、自惚れたり……でなきゃ、誰かを
「探偵さんも? そうなんですか?」
「……そうだよ」
つい口が滑って言わないでもいいことまで喋ってしまった。黄色い椅子に座る少年が過去の自分に見えたせいかもしれない。
「よくわかりました」
鏡に映った過ぎし日の自画像のような少年は言った。
「今回の件では僕が一番悪かった。詩帆さんは妹みたいな存在でいつも身近にいたから――彼女が僕のことそんな風に思っていたなんてちっとも気づかなかった。もっと配慮していればよかった……」
配慮という言葉が僕を貫く。配慮か、そう、僕に一番欠けていたものもそれだった。どうしてあの時、僕はもっと……
「僕、風花に夢中なんです。彼女のためならなんだってする。全力で守ってやりたいと思っています。もちろん、これからも!」
少年は元気よく立ち上がった。
「掛軸を見つけてくださった上に貴重なお話をありがとうございました。凄く勉強になりました。では、失礼します!」
青春の扉を押し開いて生駒君は駆け去った。
暫くしてから
「約束します! これから僕、画材はここで購入します!」
午後、僕は遠出して生駒君推奨の銀山町のケーキを買って来た。
僕はジュピター(コーヒーとシナモンのムース、カラメル包み)で、
「ねぇ、
「まぁね。正確に言えば『水だけ張った花卉』と聞いた時、入っていたのは雪兎だったんじゃないかとハッとしたのさ。〈雪見八景〉はうろ覚えだったからPCで
「やるじゃない! そうか、兎は、如何にも挙動不審な少女の無実を立証するのに一役買ったわけね」
「しかし同時に、この雪兎はもう一人の少女の強力な弁護人でもあった。気づいたかい?」
「え、わからないわ」
「ある意味、大西詩帆さんが『掛軸を見ていない』というのは真実なんだよ」
僕はきっぱりと言い切った。
「彼女は掛軸を見ていない。しっかりとはね。もっと絵柄をじっくりと見ていたら賢い彼女のことだ、花卉の水は雪兎だったと連想できたはず。つまりさ、それくらい突発的で発作的に失恋の痛み――動揺と嫉妬で掛軸を引き剥がしたんだよ。大西さんは決して悪い子じゃないってこと」
改めてPC画面に僕は掛軸の絵を映し出してみた。
「少女の心か……まったくな、偶然にもこの絵は今回の案件にピッタリだ」
画中の、恋する遊女の待つ相手は果たしてやって来たのだろうか、雪兎が解ける前に?
「私はこっちの方が合っている気がするわ」
僕の頼もしき相棒が横から素早くキーボードを叩く。画面に現れたのは、同じ浮世絵でも
〈月に兎〉
月下、二羽の真っ白な兎が描かれている。
「ね? 月を見上げる一羽は初恋の喜びに燃える赤い目。もう一羽は月を見ず、俯いたまま失恋で泣きはらした赤い目……」
「ああ、なるほど。ピッタリだな! 流石、僕の優秀な相棒だ」
来海サンを絶賛しながら僕は胸の中でそっと呟いた。
長い人生を歩き始めたばかりの若い兎たちへ。そのどちらにも幸あれ!
( 第5話:少女の心 FIN.)
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