第10話 刻まれた風景〈3〉
城下印章店の番頭、大型犬のアルバートが尻尾を振って僕を迎える。
昨日と同じ店の隅、ソファコーナーには既に三人――来海サン、兄、ホテルマンの青年が座っていた。
「こんな朝早くから、一体何が起こったんです?」
「急転直下の展開だよ、
「お客様――Sさんが、週末までの予約をキャンセルして、出てったんです」
今しがた夜勤を終えたばかりというホテルマンが急き込んで告げる。
「明け方、彼女のお父様という方がフロントに見えて……それで、すぐに一緒に去って行かれました」
青年は唇を噛んだ。
「父親が若い娘の一人旅を心配して迎えに来た――こんなのはよくあることだとは思います。でも、何処か釈然としない。新人の僕の思い過ごしでしょうか? だって」
ここで早瀬君は言葉を切った。しばらく虚空をじっと見つめてから、胸に手を置く。
「フロントに立って送り出したのはこの僕です。朝焼けの空が映るホテルのドアの前で一瞬、肩越しにこちらを振り返った彼女の顏が、彼女自身が僕に語った最後に見た母親のソレと重なって……言葉ではうまく言えないんですけど、15年前の彼女の想い……ああ、あの時、彼女はなんて言った?」
――母のその顔が私は忘れられない。ひどく悲し気で不安そうでした。
「そう、まさにそれです。彼女の様子は僕の心に深く刻まれました」
やおら若いホテルマンは立ち上がった。
「こうしてはいられない、彼女の後を追わなくっちゃ!」
「君、そりゃ、無茶というものだ。落着きたまえ」
僕が割り込む。
「迎えに来た父親は車でしたか?」
「そんなこと、わかるものか」
ところが早瀬君はあっさりと頷いた。
「ええ、車でした。お父さんはホテルの駐車場に車を入れましたから。入舎した車は常時フロントのカメラで確認しています。短時間なので駐車料は発生していません」
「新さん、そのことが何か重要なの?」
流石、僕の相棒、察しがいい。
「車、それなんです。今回の、母親失踪の謎を解く第一の鍵は〈車〉なんです」
「え」
驚く三人を前に僕は自分の推理を披露した。
「僕は昨夜一晩じっくり考えました。そしていくつか答えを得たつもりです」
ここで、持参したメモ帳を開く。
「最初、Sさんの明かしたあまりにも強烈な体験談に僕は目を奪われたのですが、冷静に考えて行くと一つ一つは正確なんだと気づきました。四歳の時見た光景の記憶――それに基づく彼女の話は嘘や偽り、いわんや、夢や妄想などではなく、全て真実なんです」
川の畔、降りしきる白い雪……けれど季節は夏だというのに? おまけに透き通った羽の生えた虫人間に連れ去られる母……
「でも、その全てに該当する場所が一つだけあるんです。少々遠いけど」
「おいおい、百歩譲って雪はともかく、虫人間まで正しいというのか、君は!」
「OK、そうですね。雪や虫人間については現場でないと理解してもらうのが難しいと思います。でも、車についての読み取りは容易に納得していただけるのでは?」
僕は続けた。
「彼女の話を思い出してください。母に手を引かれてホテルから出て、その後記憶は次の場面に跳ぶ。彼女は言っています」
――寝ていた私はドアの閉まる音で突然目が覚めました。ちょうど母が私を置いて去って行くところでした。私は驚いて窓ガラスに顏をくっつけて母の後姿を見つめました。額に当たる窓ガラスのひんやりした冷たさを今も私ははっきり憶えています。
「ここです。いいですか? ドアの音で目が覚め、即座に、つまり時間差なく、窓ガラスに顏を寄せて去って行く母の姿を目撃できた。四歳の幼児の身長や行動範囲を考えて見てください。それを考慮した上で、さて、これが可能な場所とは何処でしょう? この条件を満たせる場所は一つしかない、車の中だ。助手席にしろ後部座席にしろ、彼女は車に乗っていた」
僕は言い添えた。
「母親と娘はホテルを出てから車で移動したんです。きっと前日、ホテルへも車で来てホテルの駐車場に止めていたんだと思います」
顎を搔きながら渋々頷く行嶺氏。
「なるほど。車中なら、目が覚めてすぐ窓に貼り付ける。彼女の憶えているガラスの冷たさも体感できるな」
「時間がない。すぐに後を追う必要があります。ひょっとしたらこれは僕たちが考えている以上に凄く危険な結末へと続く可能性があります」
「君まで、何を言いだすんだ?」
行嶺氏の声が裏返る。
「今回のこれはお遊び――ちょっとした机上の推理ゲームのつもりだったんだぞ。それに、君が導きだした結論が正しいかどうかも現段階ではわからないのに、追いかけるなんて、あまりにも無鉄砲過ぎる」
「僕の推理が間違っていたら、その時は『外した』と言って皆で思いっきり笑えばすむ。僕自身は馬鹿なことをしたと恥じて数日落ち込めばそれでいい。でも」
僕は早瀬君を見た。新人ホテルマンの見開かれた真摯な瞳を。
「あの時、こうすればよかったと後悔するのだけは嫌だ。
「ええ、その通りです! 彼女の不安な顔をこのまま一生心に刻み続けたくはない」
僕は視線を行嶺氏に向けた。
「行嶺さん、この話、悲劇ではなく喜劇で終わらせましょう」
「私も、〝後を追う〟に一票。3対1よ。これで決まったわね!」
澄み切った来海サンの声が響き渡る。
「それに、ちょうどいいわ。兄さん、新車を買ったばかりじゃない。アレですぐに追跡を開始しましょ!」
「むむ、ちょっと遠いとか言ってたな。新クン、君の目指す場所とは何処だい? クソッ、嫌な予感しかしないんだが」
「
「北上川……宮城県……」
「そこに行って、父娘がいなかったら、僕は自分の推理を諦めます。勿論、ガソリン代も出しますよ。それに僕も一応免許は持っているから、交代で運転します」
「あ、僕も、就職前に免許、取りました。ペーパードライバーだけど、僕も、運転代わりますよ!」
「いや、君たち、それがイチバン僕が恐れていることなんだが。愛車のハンドルを他人に握らせる……しかも買いたてなんだぞ、トホホ……」
こうして、頼もしいバーニー犬アルバートを留守番役に、僕たちは城下印章店主・城下行嶺氏の愛車(ミニ・クロスオーバー・コーンウォールエディション色はムーンウォークグレイ!)で急遽、東北の旅へと出発した。
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