第8話 刻まれた風景〈1〉
僕は付き合い始めたJK、
来海サンの家は、実はさほど遠くない――これは、彼女が毎朝、僕の画材屋の前を通って通学することからも察知できるが。新幹線の止まるJR北口の構内を突っ切り南口へ。こちら側が歴史ある広島駅の表玄関だ。更に歩いて3分ほど、駅前の古い印章屋が彼女の実家である。
いうまでもなく凄く緊張する。市電の通る大通りから細い路地に入って……いかにも老舗らしい風格あるレトロなコンクリ造りの店舗……金字で〈城下印章店〉と書かれたガラスの引き戸をエイヤッと開けた僕は次の瞬間、
「いらっしゃいませ」
大型の犬――バーニーだ!――がショーケースの向こうで僕を出迎えた。
なんてこった! 来海サンのご両親は既に亡く、お兄さんが店を継いだと聞いていたが、お兄さんが犬だとは聞いてなかったぞ。
「落ち着いて、
天使のような来海サンの声に救われて硬直した首を巡らす僕。
「だよね? アハハハ……これは犬だ。やぁ、はじめまして、アルバート」
「ワン!」
まさか兄上より先に犬に挨拶する羽目になるとは。だが、家族の信頼を勝ち取るために愛犬と仲良くなるのは必須なり。アルバートの頭を撫でてから僕は改めて来海サンの声がした方へ身を翻した。90度の角度で腰を折り曲げる。
「はじめまして! 僕は
「君が新クンか。お噂はかねがね――来海から聞いているよ」
店内の右奥、来客用に設置してあるソファコーナーから腰を上げた人物、これぞ来海サンの兄、城下
な、なんだ、この威圧感。確か年齢は僕とたった三歳違いのはずなのに。長身痩躯、肩まで伸ばした、来海サンとよく似た赤い髪。薄い唇の両端を上げて微笑んでいるが、行嶺氏の眼鏡の奥の目は決して笑っていない。
「なんでも、君、美大卒業後、家業の画材店を継いだとか。その家業以上に謎解きに情熱を注ぐミステリマニアだそうだね?」
「あ、いえ、その」
「ちょうどいい、面白い話がある。これを君ならどう読み解く?」
「はぁ?」
有無を言わせぬいきなりの展開。僕は持参した菓子折りも渡せないまま無様にモゴモゴ突っ立ったままだ。
「紹介しよう。こちら、
もう一人、ソファに腰かけていた青年がサッと立ち上がる。
「初めまして。僕は早瀬爽といいます。この春、駅前の〈グローバルホテル〉に就職した新人です。我がホテルの慣習で印鑑が必要だというので職場の先輩に紹介してもらい、こちらでお世話になったんです」
デジタル化が声高に叫ばれる昨今、印鑑が必要なシステム? まぁ、今はそこを突っ込むのはよそう。
「わぁ! ありがとう、新さん、〈かしはら〉のはっさく大福ね。これ兄の大好物なのよ。今、お茶を淹れるわ」
来海サンは素早く僕の手から手土産を受け取り――な? 彼女はミス・レモン並みに有能なのだ――ソファの一隅に僕の席を用意してくれた。
背を押されて着席する。
こうして、僕は、名前の通り爽やかで礼儀正しい好青年が語り出した話に耳を傾けたのである。
新人ホテルマン早瀬爽君の話とは、ここ数日連泊している女子大生に関するものだった――
「取り敢えず名前はSさんとさせていただきます。勿論、お客様のプライバシーにかかわるべきではないので、僕は、一切詮索はしませんでした。ところが昨日の夜半、ホテル周辺のコンビニで買い物をして戻って来たそのSさんにルームキィーをお渡しした時、唐突に彼女が言ったのです。
『ねぇ、私のこと不審に思っている?』
『は?』
『いいのよ。私、誰かに話したい気分なの。もしよければ聞いてくださいませんか?』
夜半のホテルは独特の雰囲気なんです。昨夜は、僕は夜勤で夕方4時から翌朝9時のシフトでした。もう一人の先輩は休憩中で(夜勤は二人組、交代に休憩します)その時フロントにいたのは僕一人でした」
「深夜のホテル! わかります。レイモンド・チャンドラーはその種の、ホテルを舞台にしたハードボイルドの傑作短編を数多く書いていますよね。アメリカでは第二次世界大戦前の1930年代、私立探偵をホテルで用心棒代わりに雇っていたので、それで――」
「ゴホン」
僕の隣に座った来海サンに肘で突かれて我に返る。
「すみません。お話の腰を折ってしまって。どうぞ、続けてください」
「『私のこと、頭がおかしいと思われても仕方がない』彼女はそう前置きして話し始めました。
『実は、私は母を捜しているんです。母は15年前の夏、私が4歳の時失踪したのですが、私は母が消える直前の姿を見ているの。前後の記憶は曖昧なのに、母を見た最後の場面は物凄く鮮明なんです。とはいえ、その光景はひどく不可思議で奇妙なので、幼い私が勝手に作り上げた妄想か夢ではないかと思って長いこと心の奥に封印していました。でも、忘れたことはありません。それで、今年、短大生になって春から始めたバイト料もたまったので、夏休みを利用して、母がいなくなった同じ季節の今、私なりの母を捜す旅を始めたんです。ここを選んだのは、母が失踪する前に一緒に泊まったホテルだったから』
ここで、夜の街へ飲みに出ていた出張組のサラリーマン三人連れが帰って来て、Sさんは一旦フロントを離れました。三人組が鍵を受け取ってエレベーターに乗るとまた戻って来て話を再開しました。
『15年前の夏の朝、このホテルのあのドアを母に手を引かれて外へ出て……それから私の記憶は突然次の場面に跳びます。寝ていた私はドアの閉まる音で目が覚めました。ちょうど母が私を置いて去って行くところでした。私は驚いて窓ガラスに顏をくっつけて母の後姿を見つめました。額に当たる窓ガラスのひんやりした冷たさを、今も私ははっきり憶えています。
うっすらと空が白んでいて川沿いの道を母は歩いて行く。辺り一面粉雪が舞っていました。雪は流れる川面に吸い込まれるように後から後から落ちて行く。その光景の中を歩み去る母は一人ではなかった。母の傍には並んで歩くもう一人の人がいたんです。母は一度だけ私の方を振り返りました。その顔が私は忘れられない。ひどく悲し気で不安そうだった。そして、何より』
ここで彼女は静かに息を吐きました。
『何より恐ろしかったのは、母の隣にいた人の姿です。それは人間ではなかった。背中に透き通った大きな羽根があり、顔は虫だった。その虫人間は立ち止まると母の首に手を伸ばした――』
だしぬけに声が止みました。
『私の記憶はここまでです。ね? 私のこと、頭がどうかしていると思うでしょう? でなければ夢を見ていたと』
彼女は小さく笑いました。
『私も自信がないんです。私の見たもの全てが真実かどうか。でも、記憶は鮮明で周囲の風景ははっきりと心に刻まれています』
『だから、私、このホテルを拠点にして、ここ数日、周辺の川を巡っているんです。大きな橋が架かっていて、まっすぐに伸びる川。今のところ該当する風景には至っていませんが、記憶に残っている同じ場所に行き着ければ〝ここだ〟とわかるはず。そしたらその前後の母の情景ももっと鮮明に思い出せる気がするんです』
話し始めた時と同じように唐突に彼女は話し終えました。
『私の話を最後まで聞いてくれてありがとうございました。こうして口に出すことで決意が新たになりました。私、初めて
『僕が初めて?』
聞き役に徹していた僕はここで思わず問い返しました。〝優しい〟と言ってもらったことが嬉しかっただけでなく、正直吃驚してしまって――
『このことを、お母さんが失踪された際、他のご家族や警察に何も話されていないのですか?』
『直後、父が警察に失踪届けを出しました。でも、私は誰にも何も言っていません。警察の人も母について私には尋ねなかった。それに訊かれたところで幼児の私がこの不思議な光景をきちんと話せたかどうか。〝夏に、粉雪の舞う中、母が虫人間につれさられた……〟ね? そもそも、今、話してもおかしいですよね?』
短い沈黙の後で彼女は僕に問いかけました。
『
『勿論です』
『ありがとうございます。話してよかったわ』
最後に彼女はじっと僕の顔を見て言ったんです。
『ホテルは、旅の人――やって来ては去って行く、通り過ぎる人たちの場所。あなたも色々な人たちを見送ってきたのでしょう? だから、こんな行きずりの私の話を明かしても許していただけるかなって思いました。付き合ってくださってほんとにありがとう。おやすみなさい』
『おやすみなさい』」
青年ははにかむように笑った
「以上が僕の話の全てです。実際、僕はまだ新人で彼女が思っているほどたくさんの旅のお客様を送り出してはいないんですが」
「さあ、君、この話をどう読み解く?」
手を振って促す行嶺氏。僕は困惑したまま正直に答えた。
「そう言われても、あまりにも突飛過ぎて……」
若いホテルマン、早瀬爽君も大いに恐縮して頭を搔きながら、
「やっぱり、そうですよねー、突飛ですよねー」
「あ、でも、取っ掛かりは皆無じゃない。例えば、お母さんが失踪した場所に関して〝大きな橋が架かる川の
早瀬君はパッと笑顔を煌めかせた。
「そう思いますか? ならば、お願いします。少しでも現実に〝ここだ〟と思い当たる場所や、その他、何か気づいたことがあったら、どんな些細な情報でもかまいません。ぜひ僕に教えてください。お客様はまだ数日滞在されるそうですので、僕も出来る限り彼女の力になりたいんです」
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