第7話 見えない地図(4)

「こっちよ、こっちだわ」

 来海サンが真っ先に歩き出した。高遠氏と僕も続いた。見えない道案内――香り・・に導かれて僕たちは坂道を下って行った。並んでいる家並みが一端途切れたので足を止める。だが甘い香りは消えることなく僕たちをいざなった。

 先へ、先へ、更に先へ。

 角を曲がると一軒の古風な家屋と低い生垣を巡らせた庭が見えて来た。香りが一段と強くなる。

 闇の中でも庭に立つ人影が薄っすらと見えた。純白のワンピースを纏ったその人は庭の草花に水をやっていた。ブリキの如雨露ジョウロを持つ手を止めて、振り返った――

 嘘だろう?

 その人こそ――高遠氏が見せてくれた肖像画の女学生だった!

 どのくらいの間、僕と来海サン、そして高遠氏はその場に立ち尽くしていたのだろう? 

 驚いたことに、呆然と佇む僕たちより先に眼前のその人が口を開いた。

 闇を透かし見ながら、

「あなたは……馨さんですか?」

「はい、そうです。僕は高遠馨です」

 高遠氏は一歩前へ出た。

「僕は、間に合いましたか? ずいぶん遅くなってしまったのですが……」

 続けて高遠氏は訊いた。

「僕は高遠馨ですが、どうか、あなたの名をお教えください。あの日、とうとう聞き出せなかったあなたの名を」

すみれです。私は、藤島菫と申します」


 数分後、僕たちは相変わらず庭の前、低い垣根を挟んで立っていた。

「驚かせて申し訳ありませんでした」

 その人は深々と頭を下げた。高遠氏ももっと深く頭を垂れた。

「いえ、こちらこそ。驚かせたのは僕の方だ」

 種明かしをしよう。ついさっき庭に立つ白いワンピースのその人は言ったのだ。

「ごめんなさい。最初にお教えした名、菫は祖母の名です。私はあおいと申します」

 更に、葵さんはこんな風に語った――


 祖母は昨年、体調を崩して入院したのですがお見舞いに行った際、唐突に私にある話をしてくれました。 他愛なくも微笑ましい初恋の話でした。

『ほんとに、若い娘は時に思いもよらない大胆な真似を仕出かすものよねぇ』

『なぁにそれ、おばあちゃんのアバンチュール? 聞きたい聞きたい、教えてよ』

 ひとしきり独りでクスクスと笑った後で祖母は話し出しました。

『高校最後の夏休みを前に、私、ずっと憧れていた男子学生に思い切って招待状を渡したの。その人の名に引っ掛けた謎めいた招待状よ。夏の夜に香る花を道案内にお茶会においでくださいって。我が家の夜来香イェライシャンの香りは近所で有名だったから。

 夏の間中、私は待ったのよ。でも遂にその人はやって来なかった。

 ほんと、おバカさんでしたよ。今思い出すと顔から火が出るわ。女学生の恋の妄想なんかに付き合ってくれるはずないのにね。その人は市内の有名な進学高校に通ってて、そこでも1、2を争う優秀な学生だったんだから。まして大学への受験勉強で大切な最後の夏に邪魔をして申し訳なかった。でもね、反省よりもその時は自分が失恋したことにひどく打ちのめされたわ。もう顔を見るのが辛くて新学期から私は通学時間も変えてしまった……

 自分勝手で、奔放で、困った娘だったのよ、私。でも、フシギねぇ。あんなに辛くて、恥ずかしくて、忘れてしまいたいあの夏が、飛び切り美しい思い出として今も鮮やかに胸に刻まれている――』

『まぁ、おばあちゃんったら。素敵な恋バナを聞かせてくれてありがとう。でも、その人が夏のお茶会に来なくて良かったわ。だって、その人――馨さん? がやって来てたら、私はこの世に生まれなかったかもしれないじゃない』

『あら、ほんとにそうだわね!』


「初恋は実らないっていいますものね」

 僕たち三人を前に葵さんはこう言って自身の話しを締めくくった。

「美しい思い出を胸に、一人娘だった祖母は、その後、何度目かの恋の後で、婿養子になってくれた祖父と結婚し二男一女の子供をもうけて幸せに暮らしました」

 高遠氏が即答する。

「それは良かった!」

「私は四人いる孫の一人です。女の孫は私だけなので凄く可愛がってもらいました。祖母は去年の冬に亡くなりました。穏やかな最期でした」

 菫さんの孫娘はそっくりの笑顔をきらめかせた。

「祖父は既に十数年前に亡くなっているので空き家になったこの家に、この春から私が住み始めました。入院中から祖母に頼まれて庭の手入れもしていたので凄く愛着があります。祖母の話がとても素敵だったので新しく夏の夜に香る花も増やしました」

 手を広げてテラスの方を振り返る。白いガーデンチェアとテーブル、その廻りのいくつもの鉢を葵さんは順番に指差した。

「ニオイバンマツリ、ジャスミン・エンジェルウィング、アフリカンガーデニア……どれも最近人気の新種です。とはいえ、夜来香には勝てませんね。あ、申し遅れました。私、段原のショッピングモールにある花屋で働いているんです」

 頬を染めて小さな吐息をひとつ。

「でも、まさか、本当に祖母の初恋の馨さんが訪ねて来てくれるとは! これも人生の魔法の一種としか思えません。あるいは、おばあちゃんのはからいかしら? 遠い夏、祈った願い事が六十数年かけて叶うなんて……」

 改めて姿勢を正して葵さんは言った。

「ようこそ、夏の夜のお茶会へ! さあ、お入りください!」

「よ、喜んでお招きにあずからせていただきます」

 即座に快諾する高遠氏、続けて、僕は言った。

「どうぞ、高遠さんはごゆっくり楽しまれてください。僕たちはこれで失礼いたします」

「まぁ! ご遠慮なさらずに、あなた方もぜひ!」

「そうですよ、私をここへ導いてくれたのはあなたたちだ」

「いえ、探偵の美学を貫かせていただきます。謎が解けた時、探偵は速やかに退場する――」

 笑って付け足した。

「あ、でも一つだけ最後の謎にお答えくださいませんか。葵さん、あなたのおばあさまは当時の女学生としては珍しく探偵小説がお好きだった、そうでしょう? それもお父上――あなたにとっては曾祖父に当たる人――の影響ではないかと僕は推理するのですが、いかがです?」

「どうしておわかりになったの?」

 祖母似の孫娘は大きく目をみはった。

「確かにその通りです。祖母はミステリマニアでした。入院中も最後までミステリ小説を愛読していました。しかも――そう、祖母の父親がやはり探偵小説が大好きで、今もこの家の一室は曾祖父の収集したその種の蔵書で埋まっています」

「なるほど、菫さんはミステリがお好きだったのか! だから、あんな不思議な招待状が書けたんですね」

 優秀な元弁護士は感服の体で幾度も頷いた。

「そこまでお見通しだなんて! いやはや、流石に謎解き専門の画材屋探偵という看板をHPで掲げるだけのことはある!」

 高遠氏と葵さんの拍手に送られて僕と来海サンはその場を辞去した。


「私をからかってる? もしくは、私が気づかないとでも?」

 来海サンが頬をプッと膨らませる。これが彼女の抗議の仕草なのだ。実はこの顔を見たくて僕は何度か、わざと怒らせたことがある。

「女学生の菫さんがミステリ好きだったのはそのお父様の影響よ。お父様自身がミステリマニアでそのお父様のたくさんの蔵書に囲まれて育ったから。でもあなたはそう推理した過程を高遠氏や葵さんにキチンと語っていないわ。もっと言えば――」

 短い沈黙。来海サンは、勢いよく振り向いたせいで落ちかけた麦藁帽子をきちんとかぶり直した。

「高遠氏が持ち込んだ今回の謎の鍵が〈名前〉だったように、最後も〈名前〉で終わるのよね」

「ほう? では、僕に代わって君の完璧な推理を説明してくれたまえ」

 ホームズ口調の僕をにらむ来海サン。

「それよ、新さん同様・・・・・、女学生のお父様はシャーロキアンだったのよ。だから、一人娘に〈菫〉と命名した」

 そう。ホームズはビオレットと言う名が好きだった。敬愛する彼の祖母の名だから。この名を有す人の依頼なら即座に請け負っている。今回、葵さんから『祖母の名が菫だった』と聞いて僕はピンときたのだ。ビオレットは日本語で……

 ここから女学生とその父が親子二代の筋金入りミステリ愛好家だと推理できたというわけ。

「やはり、君もそこまで読みとったんだね。流石、画材屋探偵の相棒だけのことはある!」

 大満足で褒め讃える僕の横で来海サンが足を止めた。嫌にまじめな口調で言う。

「ねえ、あれは真実ね? あれこそ今回最大のQEDじゃない?」

「な、なにが?」

 まだこれ以上未解読の謎が残っていたっけ?

「孫娘の葵さんが話してくれた祖母、菫さんの言葉よ。『恋をした若い娘は時に思いもよらぬ大胆なことをする』ピンポン、大正解! 永遠に――ビクトリア時代から昭和、平成、そして令和の時代に至っても、娘たちは恋した人に謎をかけるの。想いを伝えたくて」

 爪先を立てて来海サンは囁いた。

「私の持ち込んだ謎を新さんがさっさと解いてくれて良かった! 六十年は長すぎる。私はそんなに待てないわよ」

「!」

 夜風に乗って、高遠氏と葵さんの笑い声が夜来香の香りとともに漂って来る。

 甘い夏の闇の中で僕たちはそっと初めてのキスを交わした。


 

                    ( 第2話:見えない地図 FIN.)


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