第12話 刻まれた風景〈5〉

「15年前の夏の夜、栞さんのお母さんは夫と別れる決心をして娘を連れて自分の車(警察発表では2005年型ホンダシビックセダン)で家を出ました。両親は既に亡くなっていましたが幼少期を過ごした故郷の東北の町を目指します。途中、僕たちの街の駅前のホテルで一泊し、翌朝、更に旅を続けました……」


 後日。再び城下印章店のソファコーナーに集合した城下兄妹と早瀬君を前に僕は改めて今回の案件に関する推理を説明した。


「夫は妻の出奔に気づき、やはり自分の車で追って来た。追いつかれたのが北上川沿い――宮城県登米大橋近辺でした」

 これも警察の発表によると、栞さんのお母さんの出身地は登米市東和町米川――この川沿いをもう少し行った処とのこと。

「栞さんのお母さんは最後の話し合いをするために川縁で車を停め、娘を車中に残し外へ出た。その日がちょうど今と同じ季節でした。この地域一帯は例年のこの頃、夜明けとともにアカツキシロカゲロウが産卵のために集まり、空を埋め尽くして乱舞し、交尾を終えた亡骸が雪のごとく降り注ぐ特異な場所なんです」

 この現象については近年詳細な調査が行われ、その光景を収録した映像もPC上で公開されている。

「登米大橋の川縁で夫は妻を絞殺。夫は妻の亡骸を娘が乗っていた方、妻の車のトランクに隠した。自分の車は近隣の空き地へ停め置き、妻の車で娘とともに広島県北西部安芸太田町の自宅へ戻った」

 ボソリと行嶺氏が呟く。

「太田町か。あの辺りは町面積の90%が森林だったっけ……」

 その言葉に頷いてから、僕は更に続ける。

「帰還後、夫はすぐに自宅裏山に妻の遺骸を埋め、娘を実家(ほぼ同じ敷地内)の両親に預けると『昨夜、妻が家出した。追いかけてなんとか娘は取り戻した。これから行って再度妻を説得するつもりだ』と告げて出かけます。今回は鉄道で当地へ戻り、川縁に止めておいた自分の車で帰還したというわけです。帰宅後、老父母には『妻は行方をくらまし会えずじまいだった』と話し、その後で警察に正式な失踪届けを出しました。だから、殺害前後の真相は遂に祖父母や幼い娘は知らず終いだった」

 あとからあとから降り注ぐ白い欠片、羽虫たち……

「妻の首を絞めて殺害し、遺骸を抱きかかえて妻の車に戻った時、夫は、車中の娘は眠っている、何も知らないと思った」

「だが、見ていた・・・・

 行嶺氏の言葉に僕はもう一度静かに頷いた。

「ええ、そうです。父が母を絞殺する場面は幼児にとってどれほど衝撃的だったことか。到底、受け入れられない、信じられない光景です。そう言う場合、心理学的な自己防衛手段としてよくあるそうですが、記憶を改竄する。つまり、恐ろしい行為をした父と周囲に降り積もる虫を重ねた……お互いの容貌カタチを入替えるというか、転換した……これが虫人間の正体です」

「新さんが言っていた通りだったわね」

 ホウッとひとつ来海サンが溜息を吐いた。

「栞さんは全て見ていたし、語ったことは全て真実だった」

「うん、でも――」

 そう、今回の話は、僕が望んだとおりの〈喜劇〉では終わらなかった。

 15年前と今年、辛い体験をした娘さん、栞さんの命を守れたことだけが唯一の救いだ。そして――

「あ、栞さんからだ。スイマセン、僕、ちょっと失礼します」

 スマホの発信音とともに席を外したホテルマン。彼と栞さんの間で新しく結ばれた絆を心から喜びたい。この縁が若い二人の明るい未来への懸け橋になればいいと願うばかりだ。

「正直言って、僕はかなり感動してるんだよ、新君」

 行嶺氏が咳払いをして言った。

「有無を言わさず追いかけようと言ったあの時の君の姿には鬼気迫るものがあった。何というか――女の子の命を絶対守り抜くという強い決意、はがねの意思がみなぎっていた。素晴らしかった! 脱帽するよ」

「それは――」

 それは僕が一度失敗しているからだ。僕は以前、ミスった。

 だが、そのことは思い出したくない――

 宙に浮いた僕の言葉の、その先を待っている行嶺氏に気づいて僕は慌てて言った。

「そ、それは、どうも、ありがとうございます」

 ぎこちなく笑って視線を避け、俯いてスマホを操作する。

「フフ、照れ屋さんねぇ」

 兄の賞賛を僕が照れ臭がっていると誤解した来海サンが優しく身を屈めて訊いて来た。

「何を見てるの?」

「うん、印象派の先駆者と言われる英国の画家ウィリアム・ターナーに『ノラム城の日の出』という作品があるんだ。北イングランドの某河畔を描いた絵だ、ホラ」

 僕は差し出してそれを見せた。何処までも悲しい色だ。

「あの日、僕たちの見た羽虫舞う空はまさにこの色だったな……」


                ( 第3話:刻まれた風景 FIN.)


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