第40話 あの子を捜して/捜索依頼〈5〉
「あら! そうだった!」
依頼人は姿勢を正した。
「では、伺いますわ、お聞かせください」
「活発に動き回るあなたの猫ちゃんですから同じ場所にとどまっていることはないでしょうが、僕と相棒が調べた時点ではここにいました」
まず前置きをしてから、
「その場所は〈オエンナガットの洞窟〉です」
「初めて聞くタイトルだわ。その絵は誰の作? 何処の美術館にあるのでしょうか?」
「絵ではありません。地名です。場所はアイルランド、ラスクロハン。報告書の中にも写真をコピーして入れてありますが――ご覧ください」
僕はスマホで現地写真を示しながら説明した。
「ここラスクロハンは広さにしておよそ6、5㎢。現在は羊たちがのんびり草を食んでいる豊かな牧草地です。ですが、2000年以上前は古代ケルトの王国の重要な祭祀場所でした。サウィン祭りというハロウィーンの起源といわれる祭りの発祥地としても有名です。その地にあるこのオエンナガットの洞窟はあの世とこの世を結ぶ通路の入口とのこと。生者と死者がここを通って行き来できるとか……」
「いかにもあの子が出没しそうな場所だわ!」
身を乗り出す高林さん。
「でも、いったいどうして、
「オエンナガットの洞窟は」
深く息を吸って、僕は調査報告を締め
「日本語に直すと〈猫の洞窟〉という意味なんです」
「Q.E.D.」
高林さんは目を輝かせて大きく頷いた。
「オエンナガット……なんてゾクゾクする響き! そうね、あの子はそこにいたのね? わかります!」
高林さんは
「私の無理筋な依頼をきちんとこなしていただいて感謝の言葉もありません。こんな風に私と付き合ってくださったのみならず、ちゃんと居場所まで見つけていただいて――本当にありがとうございました」
ここで僕の頼もしき相棒が少しもじもじして言った。
「あの、もしよろしかったら、今回の調査記念に私たちにも〈あの子〉さん……高林さんの猫ちゃんのお名前を教えていただけますか?」
「いけない、私ったら! 皆さんとお話できて、そして、それがあんまり楽しくて、興奮しすぎて一番肝心なことを失念していました。お待ちになって――」
夫人はハンドバッグから手帳とペンを出した。一瞬、妙な間が開いたが、すぐにサラサラとペンを走らせる。
その頁を切り取って僕たちへ差し出した。
ミの一番最初と、ケの一番最後が羽根の形をした優雅な飾り文字だ。
僕と
「ミケちゃん!」
それが今回唯一の大きな失策だった。
なんてこった! ここまで名探偵として
最後の最後で僕たちはやらかしてしまった――
眼前の依頼人、ミステリ愛好家の大先輩、
一口、紅茶を啜り、優雅にカップを置くと高林さんは微苦笑して首を振った。
「違います。あの子の名前はミケではなくて、ニケよ」
これは飾り文字ではなく暗号文なのだ!
「ミ」
やられた!
歯噛みする僕の横で、『全ての謎はすぐに/徹底的に解明する』が信念の来海サンがキリリと眉を上げて訊いた。
「この〝羽根〟に意味はありますか?」
「ニケはサモトラケのニケから名付けました」
ニケ(英名ナイキ)は古代ギリシャの翼を持つ勝利の女神である。
〈サモトラケのニケ〉は1863年、エーゲ海の島、サモトラケ島の海中から発見されたその女神の彫像だ。
体長244cm、大理石製、紀元前190年頃の作と推定される。
この像は現在、頭部と両腕が欠損した姿のままルーブル博物館に展示されている。発見時、最初に胴体が、続いて翼が引き上げられた。その際、翼は1118個の欠片となって海底深く散らばっていたという――
「お見事です! 引っかかってしまいました」
潔く敗北を認める令和のトミー&タペンス、おしどり探偵。
しょげかえる僕たちを見て高林さんは恥ずかしそうに謝った。
「ごめんなさい、ついミステリ好きの血が騒いでお二人に挑戦したくなりました。命名の理由をもう少し解説しますと、あの子は虎毛の猫でした」
「サモ
「それだけじゃなく、子猫の時から跳ぶのが大好きで、高いところに上っては大ジャンプをするんです。庭の樹々でもよくそれをしたわ。庭いじりをしている私めがけてビューンって飛び降りる」
クスクスと思い出し笑いをした後で静かに顔を上げる。
「最後もね、そうだった。庭にいた私が気配に気づいて見上げた時、私の相棒は開け放した二階の窓から私を見下ろしていたの。老衰でもうほとんど動けなかったのに、一体どうやって窓辺まで出て来ることができたのかしら? 『ニケ?』ハッとして私が叫んだのと、あの子が大ジャンプをしたのはほとんど同時だった。着地したあの子に駆けよるとあの子はもう天に召されていました」
美術館の天井から遥か遠く、何処までも広がる蒼穹の天を透かし見て高林さんは言った。
「その名の通りの見事な飛翔でした」
高林さんに別れを告げ美術館を出た。
「今回も楽しくて――意義深い案件だったわね!」
「うん」
ここからは広島城も近い。行き交う人々を眺めながら来海サンが囁いた。
「ねぇ、ここを歩いている人たちも、皆、心の奥底で誰かを捜しているのかな? いなくなった大切な誰かを?」
「そうだな、喪失の悲しみを知らない人はいないから……」
春の突風が吹き過ぎて来海サンの髪がフワリと舞い上がる。
咄嗟に僕は腕を伸ばして来海サンの手を掴んだ。強く握り過ぎたせいで来海サンが指にはめた指輪が僕の手に食い込んだ。そのくらい――力を込めてしまった。
手を刺す
「フフ……大丈夫よ、安心して」
来海サンが
「私はいなくなったりしないから。空を舞って
「本当に?」
僕は胸の中で繰り返さずにはいられなかった。
僕をおきざりにして、飛び去ったりはしないかい?
再び戻って来た悪戯な春風は、ただ僕の頬をなぶって吹きすぎるばかり。
(第8話:あの子を捜して/捜索依頼 FIN.)
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