第15話 幻聴〈3〉

 急遽、話は決まった。折角足を運んだのだ。今夜、来海くみサンと僕が紅川くれかわさんの自室に一緒に待機して夜通しその音が聞こえるかどうか試してみよう、ということになる。

 紅川さんの住いは大学の丘のすぐ下の学生専用マンションだ。だから若者の出入りには寛容である。その上、今は学園祭中とくる。学生仲間のパーティという態で僕たちは近くのスーパーで夕食の食材を買い込んだ。広島市生まれの三人となれば勿論、広島風お好み焼きで決まり! 外からの〈音〉は常に気にしつつも、ホットプレートを囲んで僕たちは大いに盛り上がった。

 とはいえ、ともえさんと来海サンの〝会話〟に関しては、僕は蚊帳の外。従姉妹同志のガールズトークに割り込む余地なんかなかった。やがて女性陣が仲良く寄り添って寝息をたてはじめてからも、僕は独り、文庫本――持ってきて良かった! 荒涼たるカンブリア州を舞台にした英国推理大賞ゴールドダガー受賞作――の頁を繰りながら不寝番を続けた。


 この、夜を徹した調査の結果は――

 ハズレ。

 一晩中粘ったものの僕たちは、結局紅川さんの言う〈音〉を聞くことはできなかった。たった一夜の張り込みで、運よくそれを聞けるなどと期待する方が甘いということか。

 昨日、お好み焼きの材料と一緒に買い込んだデニッシュと、紅川さんが淹れてくれた美味しいアールグレイを味わった後、僕と来海サンは早々に出立することにした。

「今回の件で、何一つ問題解決ができず申し訳ありませんでした」

 率直に詫びる僕に紅川さんは微笑んだ。

「とんでもありません。こちらこそ行嶺ゆきみねさんの伝手つてでご厚意に甘えてしまって……色々ありがとうございました。来海ちゃんと会えて一緒に過ごせただけで凄く楽しかった! もっとゆっくりしていってとお引き留めしたいところだけど」

 年上の従姉妹は悪戯っぽく片目をつむる。

「せっかく大阪に来たんですもの、USJに寄って行くには急がなくっちゃね!」

「やだ! 便乗デートだってしっかりバレてるゥ」

「行嶺兄さんにも聞いていたけど、素敵な探偵さんを捕まえたわね、来海ちゃん。とってもお似合いよ!」

 それから僕に向き直った。

「一人っ子の私にとって、来海は大切な妹です。どうぞ、よろしくお願いします」

「あ、いえ、そんな……」

 ドギマギする僕をまっすぐに見つめて紅川さんは言う。

「今回、あなたと来海ちゃんに自分が聞いた〈音〉について、口に出して話をすることができて凄くスッキリしました」

 瞬きをして、彼女は続けた。

「私、その音を実際に聞いたのか、幻聴か、そのことばかりにに捕らわれていたんだけど、あなた方と話しをするうちに重要なのはそれじゃないと気づきました。あの不思議な音色は今も私の心の中に沁み込んで、いつでも明瞭に呼び起こすことができます」

 暫しの間。言葉を探すように視線を巡らせる。

「私ね、実はあの音を聞いてから、フルートの腕が格段に上がったの。好い音が出せるようになったって、教授にも褒められます。リキミが取れて空回りしなくなった、上手く聞かせようという嫌味が消えて純粋な音になったって。だから、あの音には心から感謝してるんです。これ以上――」

 サッと首を振る。従姉妹とよく似た赤茶の髪が細波さざなみのように揺れた。

「音の真偽や出処を知りたいなんて言うのは、チョット違うかな。贅沢だし我儘かもって思います。あの不思議な音は、演奏家への夢の途上で迷った私を救ってくれた〈道標みちしるべの鐘〉として、大切に胸に納めることにします」

 依頼人は輝く笑顔を僕たちへ向けた。

「だから、QEDよ! この問題は見事に解決していただきました。探偵さんとその相棒さんのおかげです。本当にありがとうございました!」


「素敵な人だなぁ!」

「そりゃ、私の自慢の従姉妹だもの!」

 ベランダから手を振る紅川さんに見送られて、満ち足りた思いで僕たちは歩き出した。

 早朝の道に人気ひとけはない。大学まで戻って、朝一番の無料バスで駅へ向かうことにする。

 昨日下った大学への丘を、手を繋いでゆっくりと登って行く。

 その時だ、僕たちはそれを聞いた――


 コーーン……コーーーン……


「聞いた、あらたさん?」

「聞いたとも!」

「あれこそ巴ネエの言ってた音じゃない?」

 音のした方へ僕たちはひた走った――

 広大な芸大キャンパス、その丘の阪道を上った先、更に細い脇道に入る。ほどなく展望の開けた小高い場所に出た。

 大学構内にはこの種の〈憩いのスポット〉がいくつもあるに違いない。下界を見渡せる木のベンチにひとり腰掛けている人がいた。

 イーゼルにカンバスを置いて、足元には大きな帆布製のバッグ、パレットに絵具箱……

「あ! あなたたちは――」

 振り返った青年が驚いて息をのむ。僕も吃驚した。

「君は、佐々ささ君?」

 昨日、グループ展で会った画学生、佐々瞭一ささりょういち君ではないか。

「おはようございます。この時間帯の空の移ろいをなんとしても写し取りたくて格闘してました」

「これは、制作中にお邪魔して申し訳ない」

「いえ、一休みしてたんです。それなりに満足できたので。見てください、どう思います?」

 吸い寄せられるように僕はカンバスを覗き込んだ。

「素晴らしい!」

 まず感嘆が先に来た。

 草のなびく草原。今回は、人物は背中しか描かれていない。遥か先に鹿の群れがいる。中の一頭は今、首を回して確かにこちらを見ていた。まっすぐに、自分を狩ろうとしている若者の目を。

 緊張をはらんで対峙する鹿と狩人の頭上にどこまでも広がる空。夜と朝の交叉する、その光の明滅の中に、またしても古代文様がちりばめられている――

「これは、昨日展示してあった〈古代 №5〉若い狩人の絵の続き、というか、同時に見た別の視点からの絵ですね」

「わかっていただけましたか? 嬉しいな! そのとおりです」

 答えは次に、稲妻のようにやって来た。

 QED! 今度こそ本当の解決だ!

「佐々君、つかぬことをお尋ねしますが、君はこの素晴らしい画題を、あるものからインスパイアされたと言ってましたね?」

「ええ、その通りです」


 ―― 一年前、触発されるものに出会って、以来、夢中で描き続けています。


「ひょっとして、きみ、ソレ・・を今、持っている?」


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