第42話 去夏〈2〉

 見るんじゃなかった。

 いや、それ以前に、やはり、来るべきではなかった――

 それにしても何故、あいつは今頃になって、こんな絵を? しかも描かれたあの顔は……

 突然巻き戻った時計の針。〈過去〉が追いかけて来るようで僕は全速力で階段を駆け下りた。

 外の通りへ出た途端、僕は肩を叩かれた。

「失礼、――お待ちください」

 それは夢や幻ではなく、大きくてがっしりした現実の手だった。僕は振り返って自分を呼び留めた人を見た。

「?」

 浅井透あさいとおるではない。そのことに少々落ち着きを取り戻した僕にその人物は言った。

「今、あなたはあそこの個展会場から出て来たでしょう? 少々お話を聞かせてください」

「僕に? あなたはどなたです?」

 男はスーツの内ポケットから黒い手帳を出した。

「警察の者です。有島ありしまと言って――刑事をやっています」

 警察手帳に刑事……

 嘘だろう? こんなこと、現実にあるんだ!


「驚かせてしまって申し訳ありません。お尋ねしたいことがあります」

 歳は三十代半ば、堂々とした体格ながら優し気で穏やかな顔立ちの有島刑事は言う。

「あなたは、たった今、このビルの二階でやっている個展会場から出て来ましたね。開催主の画家とお知り合いですか? どのようなご関係なんですか?」

 有島刑事の率直な物言いと、予想外の展開に虚を突かれたせいもあって、思わず僕は素直に自分の名を名乗っていた。

「僕は桑木新くわきあらたと言います。東区の光町で画材屋を経営しています。個展の開催者、浅井透とは美大の同級生でした。昨日、個展の案内状が送られてきたのでやって来たんです」

 ここまで言って考える。包み隠すことなく素性を明かしたのだ。次は僕が質問する番ではないか?

「どうかしたんですか? 警察の方と仰いましたが、まさか、個展を見に来た人全員にこんな風に尋問なさっているんですか?」

 刑事は微苦笑した。

「やって来たのは今のところ、あなた一人ですよ」

「え?」

 ここを訪れたのは僕一人――そのことにも驚いたが、有島氏は更に驚愕の事実を告げた。

「あなたのご学友、浅井透氏は現在、未成年者誘拐の容疑者として捜査対象になっています」

「そんな――」 

 絶句する僕に刑事は続けた。

「報道規制中ですが、あなたを信頼してお話します。浅井氏は、二か月前から失踪届けが出ている女子中学生と一緒にいるところが目撃されました。我々が事情を訊くために氏の現住所を訪れたところ、そこに氏の姿は無く、逃亡したものと推定されます。女子中学生はまだ見つかっていません。氏について更に詳しく身辺を調査した結果、三日前にこちらで個展を開催すべく準備していたことがわかりました」

 チラリと古いビルを振り返る。

「会場の賃貸料金は事前に払い込まれていて、鍵を受け取りに来た人物について不動産業者に写真で確認した結果、浅井氏本人と断定されました」

 刑事はいったん口を閉ざした。短い沈黙の後で顔を上げ、じっと僕を見つめる。

「我々が捜索した時点で、会場には既に作品を搬入済みでした。あの通り、施錠もせず放置した状態で今に至るまで本人は一度も姿を見せていません」

 だから? 個展会場周辺を監視していたのか。そして、浅井当人はもとより、来訪者を見張っていた――

「女子中学生の安否が掛かっています。どうか情報提供にご協力願います」

「もちろん、僕が知っていることは全てお話します。でも――」

 僕は早口で言った。

「浅井とは彼が美大を去って以降、ここ数年、ずっと音信不通だったので最近のことは僕も何も知らないんです。昨日突然、個展の案内状が届いて正直驚きました」

 持参していたハガキを有島刑事に差し出す。その場で一緒にハガキを見て気づいたのだが、開催日時と会場の住所以外、時候の挨拶や近況等、本人に関することは一切記されていない。あまりにそっけない文面だ。消印は広島市内、投函日時は〈8-12〉、昨日だ。

 ひょっとして、この案内状は僕だけに出されたのだろうか? つまり、僕を呼ぶためにだけ……

 背中を冷たい汗が流れる。

 僕の困惑を有島氏は感じ取ったはずだ。だが、それ以上何か訊かれることもなく、会話はここで終了した。

「ご協力感謝します。浅井透氏のことで、特別にまた何か思い出したり、当人から連絡などありましたら、その時はすぐにお知らせください。よろしくお願いします」

 名刺をもらって僕はその場を離れた。


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