第6話 妄想と覚醒
◆◆◆Side―春風
春風はトボトボと歩いていた。
昨日より更に寒さを増している朝。
自宅マンションから勤務先であるサロンまで、徒歩で約10分の道のり。
昨夜、潔葉と瞬は抱き合っていた。
瞬の背中越しに潔葉と目が合った。潔葉は春風に見られた事に気付いていたはずだ。
春風が踵を返した後、潔葉は安心して瞬に体を委ね、瞬は潔葉の瞳を真剣に見つめて、こう言ったに違いない。
『キスしてもいい?』
恥ずかしそうに頬を紅く染め、視線を反らす潔葉。
無言はイエスの合図とばかりに、瞬は潔葉の顎に指を添える。
静かに目を閉じた潔葉の顎をくいっと上げ、その潤った形のいい唇に、ねっとり唇を重ねる。瞬の手は潔葉の胸元へ。潔葉の手は瞬の股間へ――。
そんな妄想に囚われた春風は、もがき苦しむようにベッドを転げまわり、眠れない夜を過ごした。
結果、メランコリックな朝を迎えていた。
重力に抵抗できない肩と首。よく晴れた空など見上げようとも思わない。鬱陶しいだけだ。無機質なアスファルトばかりが視界を覆い、冷たい風にあおられながら、へたへたと足を引きずる。春風というなんとも爽やかな名前を付けてくれた親に、申し訳ないほど農灰色の雲に包まれていた。
「おはよー」
サロンの分厚いガラス扉は、日頃の倍ほど重く感じた。
「山道ディレクター? どうしたんですか?」
姫香の心配そうな声が春風の足を止める。
「どうもしてないけど」
体は重く、油の切れたロボットのようにぎこちなく、鈍い動きで姫香に顔を向けた。
「ひーっ!」
姫香は肩をすくめ、たたんでいたタオルを胸元でぎゅっと握った。
昨夜は一睡もしていないのだ。よほどひどい顔をしているらしい。
スタッフが次々と心配の目を向けるフロアを通り抜け、控え室のドアを開ける。
甘ったるい匂いと「おはよ~ん」という呑気な声が春風を迎えた。
控え室では今日も店長の田中が、スマホを片手に朝食のメロンパンにかじりついている。駅前の焼き立てパン屋の一番人気、幸せの黄色いメロンパンだ。
インスタントコーヒーをズズズっとすすり、春風の視界に入り込んできた。
「アレ、読んだ?」
「え? アレってなんすか?」
「小説だよ! ウェブ小説!!」
「あ~! まだ見てないっす」
「早く読めって! アレ、おもしろいから。1話だけでいいから、今読め!」
と言って、自分のスマホを差し出した。
春風はのっそりと通勤用のリュックを降ろし、机に乗せ、そのスマホを仕方なく受け取った。
『第一話 NTRの後遺症
胸元をかきむしりながら、文字通り浴びるほどの酒に溺れ、眠りに落ちる毎日だった。ベッドに体を投げ出してはシーツを握りしめ、スマホのスクリーンに彼女の写真を写し出し、まくらの奥に、ベッドカバーの隙間に、彼女の匂いを見つけては自慰をした。
彼女とまじわった場所は、徐々に自分の匂いに移り変わっていくというのに、時間はあの時から止まったまま。ベッドサイドに置いた卓上カレンダーだって、去年の12月で止まっているのに、腕時計の日付だけは容赦なく進み、季節は冬から春へとかわっていた――――』
…………ぐずん! と鼻をすする。
読み進めれば読み進めるほど、涙があふれてくる。
「うーーーっ」
言葉の一つ一つが古傷までも抉り、塩を塗り込む。
「うっ。うーっ! こっ、これっ、実話っすか?」
ボロボロと涙を流し嗚咽する春風に、田中は目を丸くして戸惑いを見せる。
「は? え? フィクションだろう?」
――フィクションだとー?
実話ならまだしも――。
「うっ……、こんな話作りやがってーーーー」
我をわすれた春風は、スマホを壁に向かって思いっきり振りかぶった。
「ちょいちょいちょいちょい」
まるで大型犬でもなだめるように、田中は春風の手からスマホを奪い取るとぎゅっと抱きしめた。
春風より少し背の高い田中の腕は力強く、温かかった。
厚い胸板からは僅かにムスクの匂いと、メロンパンのパンくず――。
背中をヨシヨシとさすりながらうんうんと頷いている。
「嫁さんとなんかあったか?」と優しく聞いた。
春風は高速で首を横に振る。
何かあるわけなどない。
元々いないのだから。
飛び散った涙が田中のデニムシャツにシミを作った。
「そっか。いろいろあると思うけど元気出せよ」
春風は小さく数回うなづき、田中のシャツに涙と鼻水をなすり付け、腕をすり抜けた。
背を向け、机の上のリュックを取り、ロッカーに向かう。
ガシャンという音と共に開いたロッカーにリュックを仕舞い、扉をしめようとしていた所――。
「失礼しまーす」
控え室に誰かが入って来た。この声は……潔葉だ。
昨夜の事が脳内に鮮明に蘇り、全開の涙腺から再び大粒の涙がこぼれだす。
「ううううっっうっっーーーーー」
――なぜに俺は既婚者設定なんだ? サラピンの独身だぞー!
閉じたロッカーの扉に、ガン、ガン、ガンと額を打ち付けた。
「や、山道……ディレクター?」
背後からの声にゆっくり振り返ると、カットマネキンを持った潔葉が、不審者でも目の当たりにしたかのような顔をして一歩後ずさった。
「なに?」
頬の涙もそのままに、要件を訊ねる。
「あ、あの、昨日……」
――昨日……。
昨日の事がまた頭をもたげたせいで、「ううっ」と嗚咽が込み上げる。
「え?」
潔葉は謎の生物に遭遇した時の顔をした。
誰かに助けを求めるみたいに、こちらを警戒しながら辺りを見回す。
目が合ったらしい田中は、達観した笑顔でこう言った。
「大丈夫、心配いらない。感動的な物語を読んだだけだ」
「そ、そうなんですね。感動的な、物語」
潔葉は全く納得していない様子でこう続けた。
「マッシュボブ、切ってみたんですけど、チェック……お願いして……いいですか?」
春風は、潔葉の手からカットマネキンを取り、抱きしめた。
「後でチェックしとく」
震える声でそう告げて、マネキンの髪をなでながらフロアへ向かう。
その背中に、田中が話しかけた。
「あーーー! ちょっと待て。今夜、急だけど、歓迎会! 潔葉ちゃんの」
小さく数回うなづき、カットマネキンに顔をうずめながら控え室を後にした。
数歩歩いて我に返った。
――え? 潔葉の歓迎会? もう?
通常なら試用期間終えてからのはずだが……。
「おはようございま~っす」と、瞬が春風の前を軽やかに横切った。やたらすっきりした顔をしている。
あいつ、もしかして最後までやったんじゃないだろうな?
ズルズルっと鼻水を啜り、「おい! 瞬!!」と呼び止めた。
「ちょ、ちょー。なんですか?」
気が付いたら、カットマネキンを小脇に抱え、もう一方の手で瞬の胸倉をつかんでいた。
「お前昨夜、どこで何してた? 昨夜の10時半ごろだっ!」
「はぁ? 店にいましたよ。知ってるでしょう!」
「店で何してた?」
「何って……。知ってるでしょう! 潔葉さんと」
「なんだとぉぉぉーーーー!!!!」
「春風!!!!」
凛と鋭い声が、店内の喧騒を切り裂いた。
カツカツカツとヒール音が近づき、そちらに顔を向けるとすぐ目の前に、怖い顔の潔葉がいた。
気迫に気圧され、瞬の胸倉から手を離した。
次の瞬間、がしっと腕を掴まれずるずると引きずられる。スタッフは全員手を止めて、青白い顔でこちらを注視している。
控え室に引きずり込まれ、ロッカーの扉にガシャンと背中を押し付けられた。
「どういう事? 何があったの?」
両腕を組んだ潔葉が、下から睨みつける。
「……別に」
「別にじゃないでしょう。今日、様子おかしいよ。何かあったんでしょう?」
「なんもないよ。やきもち妬いただけだ」
「誰に?」
「お前と瞬に」
潔葉は心から呆れた顔をして、はぁーっとため息を吐いた。
「付き合ってもないのに、やきもちですか?」
「付き合ってなかったらやきもち妬いちゃダメなのかよ」
潔葉はガシっと春風の胸倉をつかみ、グイっと引き寄せた。
「奥さんがいるんでしょーがっ! そういうの本当に迷惑なのよ!! 私は既婚者とは絶対に付き合いませんから!!」
そう言って、もう一度ガシャンとロッカーに春風を押し付けた。
クルっと背を向け、歩き出す華奢な背中に向かって、声を張り上げた。
「瞬とは付き合うのかよ?」
立ち止まった潔葉はしばらく間を持たせて、ため息と共に振り返り、憎々し気にこう言った。
「男なんてもうこりごり。恋愛も結婚も、もうたくさんよ」
そして、扉の向こうに消えて行った。
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