第9話 刺激的な夜を始めよう

 ◆◆◆Side―春風 


 渋谷駅から徒歩で5分ほど。おなじみの飲食店が、がん首を揃える雑居ビルの10階。個室を完備した肉料理専門のバルに、春風が到着したのは21時を少し過ぎた頃だった。チェーン店と違い、活気はあるが静かで大人っぽい雰囲気の店だ。


 デビュー当初から指名をくれる訳ありの顧客、大貫瞳を丁寧に駅まで送り届け、サロンの仲間より少し遅れての到着だった。

 本来なら21時まで営業なのだが、この日はきっちり20時に客が引ける算段をして、急遽潔葉の歓迎会をやる事になったわけなのだが――。

 自分の客が長引いてしまい、宴を遅らせてしまった事に、春風は僅かばかりの後ろ暗さを抱えていた。


 入口の扉を押して中に入り、出迎えた店員に予約の名前を告げる。

「田中で予約してあると思うんですけど」

「田中様のお連れ様でございますね。お待ちしておりました」

 白シャツの袖をまくり上げ、黒いエプロンを付けた若い男の店員が丁寧にお辞儀をした。

「こちらでございます」

 店員の差し出す手の方に体を向けると、視界の端に不快な人影が写り込んできた。

 本能的にそちらに目線を移すと、キャメル色のトレンチを肩にかけたゴージャスな巻き髪の女と目が合った。ちょうど来店時間が重なり、入口から入って来たところに出くわしたようだ。

「春風!」

 そう名前を呼ばれて、体中の毛穴が開き、冷たい汗が噴き出す。

 春風は忌々しいその女の名を呼んだ。「恵梨香……」


 まずい所で会ってしまった。サロンの仲間に見られたら、何かと面倒だ。

 隣には背の高い肩幅のある男。薄い色のサングラスとマスクをしているがあいつだ! とすぐにわかった。

 津田拓海。一泊50万のスイートルームにいた間男! 

 あの時、春風はあまりの出来事に呆然と立ちつくし、そそくさとこの男が去っていく後ろ姿を見送った。なぜ一発の拳もふりあげなかったのかと未だに後悔の念が押し寄せる。春風と付き合っている間も恵梨香はこの男とずっと続いていたのだ。


 春風は不倫のカモフラージュに利用されていただけだった。


 津田は春風の顔を思い出したのか、マスクを目の近くまで上げた。その手の薬指にはプラチナのリング。

 恵梨香に何か耳打ちすると、店員に案内されて奥の方へと歩いて行く。

 先に行っておくよ、とでも言ったのだろう。

 平然と胸を張って歩く姿に、にわかに腹が立つ。

 よくもまぁ、しゃあしゃあと――。10年も連れ添った妻を裏切れるもんだな。春風は奥歯をギリっとかみしめた。


「まだ続いてるんだ、不倫」知ってたけど。

 恵梨香は表情にわずかな罪悪感をにじませると、斜め下に視線を遣った。

「そっか。今日誕生日だったな」

 あの時23歳だった花嫁は、今日26歳になったらしい。

 恵梨香が腕に下げている、大きなモノグラムの紙袋にはさぞ高価な服でも入っているのだろう。あいつに買ってもらった――。

 何の未練もないはずなのに、心臓の奥底で燻っていた小さな焼け石がふつふつと内臓を熱くする。

「ははっ。もっといい店に連れてってもらえよ」

 店内を見回しながら精一杯の皮肉を言って、鼻で笑ってやった。恵梨香は何も言わなかったが、真っ赤に色づいた唇は、心のうちを物語るように震えている。


 ずっと騙されていたのだ。この程度の皮肉では到底足りない。


「一人なの?」

 恵梨香はまるで尋問するみたいにそう訊いた。

「いや」

 とびきりいい女と二人だ。と言えたらどれだけ気持ちがいいだろうか。

「そんなの別にどうでもいいだろう」

 精一杯強がり「じゃあ」と軽く手を挙げ、店員に目配せをする。

 察した様子の店員は「こちらでございます」と、通路の奥を指し示した。


 全ての席がパーテンションで区切られていて半個室状態になっている。通路側にはダークブラウンのロールカーテンが設置してあり、完全個室にもなるようだ。

 両脇に並ぶ座席の間を通り、店員が案内したのは、入り口側から二つ目の中央側の個室だ。窓側だったらさぞきれいな夜景が眺められただろうに。ロールカーテンが下ろされていて、せっかくの夜景は見えない。

 

 案内された部屋を見て春風は思う。

 ――歓迎会にしては狭い部屋だな。


 ロールカーテンを開け、「おまた……せ。え?」

 カーテンの向こう側を見て唖然とした。そんな春風に「おつかれ~」と田中は呑気に手を挙げる。

「おつかれしたー」「お疲れ様でしたー」と声が飛んで来る。

「え? あれ? 他のスタッフは? 歓迎会じゃないの?」

 シュガームーンのメンバーは全員で14名のはずだ。

 六人掛けのテーブルに座っているのは、田中と瞬と姫香、それに潔葉だけである。

「急だったからな」

 田中は言い訳するようにそう言った。

「みんな、用事っすか?」

 そう言いながら、振り返るとすぐそこに恵梨香がいる。慌ててロールカーテンを下ろした。皮肉な事に春風たちの隣のテーブル、窓側の席に入って行った。幸い、こちらのスタッフは誰も恵梨香には気づいていない。

 通路を挟んでるとはいえ、よりによって隣の席だなんて。

 パーテーションとロールカーテンだけで仕切られた部屋からは、会話する声も丸聞こえである。


「こんな時代だしな。若者はなかなかこういう集まりには参加しないんだ」

 背中で田中のセリフを聞きながらも、恵梨香と津田の話し声が、つい気になってしまう

『まぁまぁの夜景ね』と恵梨香の声。

『後でグランドセットホテルのラウンジに行こう。最上階からの夜景を見ながらワインでも飲もうか』

 ロールカーテンの隙間から見える、隣のロールカーテンから目が離せない。

「どうした?」

 田中にポンと背中を叩かれて、びくんと背を伸ばした。

「いやっ、何でもないっす」

 汗を拭き拭き、上着を脱ぎながら通路側の空いている席に腰かけた。

「悪かったなー、今日嫁さんの誕生日だったんだよな」

 半笑いで詫びる田中に、春風は両手のひらを見せてぎゅっと目を閉じる。やめてくれのジェスチャーだが、田中に通じるはずもない。

「ん? なに?」と、とぼけた返事が返って来る。

「しーーっ!」

 と、人差し指を口の前で立てた。

「え? しーー?」

 恵梨香に未だに既婚者を演じている事がバレてしまうのも悔しい。

「いいからいいから」

 両手でその話題を押し戻す。


 対面に座る潔葉と目が合った。見えない物を見ようとしている目だ。

「どうしたの? すごい汗ね」

 潔葉は春風の顔をまじまじとみつめてそう言った。

「そう! あっ、暑いね。暖房がけっこうきいてる」

 そう言いながら、脱いだパーカーをくるっとまるめて、足元のバスケットに入れた。


「しかし、急でしたね。今日金曜日なのに」と、隣に座る田中に話しかけた。


 街が賑わう花の金曜日は、美容師にとっては中日なかびも同然。

 そりゃあ、みんな参加しないわけだ。おしぼりで手を拭きながらそんな事を思う。


「それがさー、社長命令だったんだよ」

 そう言って、田中はポケットから一万円札を数枚出して、春風に見せびらかした。

「え? 社長命令?」

「うん、社長から10万預かってる。14人の予定が5人になったから、なんでも好きなだけ飲んで食え! タクシー代も出るぞ」


「イェ~イ」と瞬が両手を上げて立ち上がると、そのノリに釣られて姫香も立ち上がった。両手を合わせてハイタッチ。

 次にその両手は潔葉に向けられた、その瞬間を春風は見逃さない。「早く注文しようぜ、腹減った」と遮るように被せた。

「はーい」と、素直に席に戻り、呼び出しボタンを押す瞬。


「瞳さん、今日はどんな髪型にしたんですか?」

 と姫香が訊いた。

 瞳の施術が終わり、春風が店を出る時スタッフは受け付け以外、もう店に誰もいなかった。仕上がりを見ていないので、気になるのはごく自然な事。


「ショートボブ……かな」

 姫香は目ん玉を上に向けて、人差し指を顎に当てた。

「瞳さんて、他の美容室にも行ってますよね?」

「え? なんで? そんなわけないだろう」

 そんなわけはない! 瞳が春風以外の美容師に髪を触らせる事などないのだ。


「え、だって~、前回の仕上がりは今日着た時の髪型より長かったですよね。確かこれぐらい」

 姫香は自分の二の腕辺りに手を添えた。

「その時より短くなってるっておかしくないですか? 絶対他のとこで切ってますよ」

 その隣では潔葉が瞬きもせずにこちらをじーっと見つめている。


 今日はどうしてこうも、冷や汗をかくような事が次々に起こるのだろうか。

 春風はキリっと傷む胃に手を当てながら、この窮地をどう乗り切るかを考えなければならなかった。


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