第8話 不埒なお客様
◆◆◆Side―潔葉
落ち葉をすっかりチリ取りに収め、店内に戻るとふわっと温かい空気が体を包んだ。しかし、それは温かいなどという表現では到底追いつかない、動揺と混乱を帯びた熱気だ。
顔色を変えたスタッフはあわただしく行き来し、受付では田中と瞬、他スタイリスト2名が真剣な面持ちで予約表を見ながら頭を抱えていた。
「何かあったんですか?」
田中に訊ねると「あ~、大丈夫。心配いらない。瞳さんが来たらいつもこうなんだ」
先ほどのお客は『瞳さん』という名前らしい。受付カウンターの上に置いてあるカルテを覗くと『
生年月日も住所も連絡先も書かれていない上、ここ4年ほどは施術歴もろくに書かれていない。備考欄に来店した日付だけが刻まれている。初来店は6年前。春夏秋冬、大体年に4回ほど来店していた。
「瞳さんが来るとさぁ、一日中春風が貸し切り状態になるんだよ。いつもの事なんだが予約もせずに突然現れるからさ~。予約のお客様をみんなで手分けだ」
田中は手にしているボールペンで、耳の上辺りをゴシゴシと掻いた。
おかしな話だ。予約のお客様は春風に施術してもらいたくて、わざわざ何ヶ月も前から予約するというのに、予約なしのお客を優先するなんて。
「お断りしないんですか?」
そう訊ねると、田中は大きく首を横に振った。
「予約はしないけど、超が付く上客だ。最低でも20万は落としていく」
「に、にじゅうまん……」
ホストクラブじゃあるまいし――。何をどうやったらそんな金額になるのだろうか?
フロアを見渡すと、春風の姿は見えない。
開店前でお客もまだ誰も来ていない。
「山道ディレクターは、どこへ?」
田中は店内の奥を指さした。スタッフ控室の隣。田中の指の示す先には黒いドアに【VIP】と書かれた部屋がある。プライベートブースだが、通常は授乳が必要な赤ちゃん連れのお客様の来店時に利用する部屋だと聞いていた。
中は、六畳ほどの広さで、シャンプー台も設置してあり、お客はフロアを移動する事なく施術を完了できる。
あの個室で一体何が行われているのか。潔葉はそのドアをじっと見つめた。外から中の様子は一切分からない。
「ご予約のお客様に失礼だと思います」
売り上げのために、たくさんのお客の期待を裏切るなんて、潔葉には到底黙って見過ごす事はできなかった。また、そういう生意気な意見も言えるような空気感を田中は醸し出していた。
田中は少しも困った顔を見せずこう言った。
「フロアの権限を持ってるのは春風だ。ディレクターの判断に皆従う。それがこの店のルールだ。それに、これは社長も認めている」
そう言われて口をつぐむ。
社長さえも認めているのなら、昨日入ったばかりの新人がとやかくいう事ではない。
「そうですか。わかりました」
そう言って田中にお辞儀をし、去ろうとした所――。
「あ~、そうだ。カラー剤の在庫当たってくれる? 今日注文日だから」
そう言って、田中は一枚の用紙を差し出した。
「わかりました」
取り扱っているカラー剤のリストだ。在庫数を書き込めばいいようだ。
早速リストを持ってバックヤードに入ると、数名のスタッフが作業中である。潔葉が入って来た事には気づかず、彼女たちは洗い物をしながらひそひそと何やら話し込んでいる。
「瞳さんと山道ディレクターってどういう関係なんだろうね?」
「デビューしたての頃からのお客さんらしいよ」
「最初は個室じゃなかったんだって」
「店長も知らないのかな?」
「なんか親密そうだよね」
「ただのお客って感じじゃなくない?」
「不倫とか?」
「一日中、個室ってのも怪しいよね」
「イケナイ事してたりして」
「ママ活とか!」
「それだ! ママ活!」
ママ活するには、春風は少々歳が行き過ぎている気もするが――
カラー剤の在庫チェックをしながら、脳内ではちゃっかりその会話に入り込んでいた。そして、瞳さんと春風のイケナイ妄想が広がり始める。
繊細な春風の指は、シャンプー台に寝かせた彼女の髪を丁寧に梳いてかき上げる。恍惚とした表情を見せる瞳さんの頬を親指でなで、こうささやくに違いない。
『きれいな瞳だ』
その指は頬を伝い、ゆっくりと移動し、耳たぶをもてあそぶ。くすぐったそうに肩をすくめる瞳さんは、愛おしそうに春風の唇に視線を落とす。
まるでそれを欲しがっているかのように。
やがて春風の親指は、ワインレッドに染まった彼女の唇に移動し、輪郭をたわませる。
唇の隙間にそっと親指を差し込みむと、彼女の熱い舌がそれに絡みつき、甘い吐息をこぼした。
シャネルの5番に毒された男の理性は徐々に崩れ去り、その吐息を飲み込むように唇で覆った。
「汚らわしい!!!!」
気が付いたらそう叫んでいた。
洗い物をしながら下世話な妄想話に花を咲かせていたスタッフが、一斉に潔葉の方に振り返った。
手に持ったカラー剤のリストにはくしゃっと皺が寄っている。
「あ、いや。その……。けが……、そう、山道ディレクター昨日怪我したらしい!」
「怪我ですか?」
スタッフの一人が、そう呟いた。
「そう、昨日カット中に指切って……。怪我! 怪我らしい! 」
怪我らしい、汚らわしい。どうにか誤魔化せそうだ。
「けっこう深い傷だったから、シャンプーとか、心配だなって思っちゃって」
「そう言えば、昨日夕方の山道ディレクター指名のお客さん、店長が入ってたね」
「うんうん、確かに。それでシャンプーはしんどいよね。傷の治りにも影響出そう」
「本当! シャンプー変わってあげなきゃ!」
「潔葉さん! 潜入してきてくださいよ! どんな感じなのか」
「そうだ! 潔葉さんなら山道ディレクターのアシスタントだし!」
「シャンプーしましょうか? って感じで」
次々に言葉を発する彼女たちの顔を、ピンポンの試合でも見ているかのように、視線で行ったり来たりする潔葉。
確かにシャンプー係りはいた方がいいに決まっている。
「仕方がない! じゃあ、ちょっと行ってみよっか」
潔葉の言葉に、彼女たちは花が咲いたように喜び、小さく拍手した。
満を持してVIPルームのドアをノックすると、中から「はーい」と春風の声がした。
ガチャっと音がして、扉が3センチほど開いた。
その隙間いっぱいいっぱいに春風のセンターラインが現れて、半分ずつ見切れている目が潔葉に向けられる。
「なに?」
「怪我! 昨日の怪我大丈夫かなと思って。シャンプーしようか?」
「いや、左手だけ手袋付けてシャンプーするからいい」
「ヘルプとかは、大丈夫?」
「大丈夫」
そう言って、けんもほろろにドアを閉めた。
残念ながら中を伺う事はできず、役立たずのスパイになり下がった。
しかし、まだ諦めない。
VIPルームは、控え室と壁一枚で隔てられている隣の部屋だ。
そっと足音を忍ばせて、控え室に入る。壁に耳をくっつけるとわずかに話声が聞こえた。
『触ってもいいの?』
瞳さんの声だ。一体何を触らせようとしているのだろうか。
どっくんどっくんと心臓が跳ねる。
春風の声はぼそぼそで、何を言っているのかわからない。
『やだ、大きいよ!! 大きすぎるーー』
そして二人の笑い声。
何を大きくしたの?
『あっ、ちょっといたーーい』
そして今度は春風の声がはっきりと聞こえた。
『ごめん。優しくするから、ちょっと我慢して……』
はっと、思わず壁から耳を離した。
――え?? ナニ??
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