第7話 シャネルの女

 ◆◆◆Side―潔葉


 控え室を出ると、スタッフは皆一様に潔葉から目を反らし、そそくさと作業に取り掛かる。見てはいけない物を見てしまったかのような態度で、ある者はタオルをたたみ、ある者はワゴンを整える。

 バックヤードから、消毒済みのロッドやカラー用具を運び、ワゴンに収めていく。


『潔葉さんって女神キャラですよね』

『潔葉さんって料理絶対上手そう!』

『潔葉さんってしっかりしてそうですよね』

『潔葉さん、優秀だから――』

『潔葉さんの部屋はいつも完璧に掃除されてそう』

『潔葉さんの部屋って、おしゃれなインテリアに囲まれてそう』


 そんな風に彼らが持ってくれたイメージに、満更でもない表情で曖昧に笑ってやり過ごしたのは昨日の事だ。

 出社2日目にして、正体がばれたような事になってしまい、潔葉は気まずさを隠しきれない。

 本当の潔葉は、清純でもなければ優等生でもない。がさつで意地っ張りで、めんどくさがり屋、それでいて潔癖。面倒ごとは避けて通りたい。

 何より、春風との仲を勘違いされるのだけは勘弁してほしかった。


 なぜなら春風には、奥さんがいるのだから――。


 タオルをたたんでいる姫香の所へ行き、山になっているタオルをたたもうとすると、姫香はサロンの外を指さした。


「外、掃いてもらっていいですか?」


 今までよりも少しトーンダウンした声だった。お願いだからそんな目で見ないでほしいとお願いしたくなるような目で一瞥して、タオルに視線を戻す。


「うん、わかった。ありがとう」

 姫香は無理に口角を上げると顔を傾けてうなづいた。


 バックヤードから、ほうきとスタンド式のちり取りを持ち出し外に出ると、温度差に身震いする。薄いブラウスはひんやりと肌にまとわりつき、スカートの裾から侵入した晩秋の風が体の芯を冷やすのに、さして時間はかからなかった。


 ガタガタと震えながら、落ち葉を集める。

 サンドベージュのブロックが、幾何学模様を作るエントランスは、少し大きめの車が一台入れるほどのスペースだ。

 一方通行が多いこの通りは、交通量も少なく静かだが、ガラス張りの入口から見える景色は高層ビルに遮られて少し残念に思う。


「潔葉さん」

 背後からの声に振り返ると、申し訳なさそうな顔をした瞬が立っていた。


「なんかすいませんでした」


「どうして謝るの? 瞬君は何も悪くないでしょ」


 瞬から顔を反らし、掃除を続けながら答えた。

 同じ職場で恋愛感情など、持つのも持たれるのもめんどうだ。潔葉は仕事をしに来ているのであって、出会いなど微塵も求めていない。そもそも男性美容師など、もう懲り懲りなのだ。


 あまり勘違いさせないように気をつけなければ、と思いつつ、嫌われず且つ嫌な思いをさせないよう、友好的な関係性を構築するのは簡単な事ではないような気もしていた。


「っていうか、山道ディレクターどうしちゃったんですかね?」


 一番困る質問である。


「んー……、どうしちゃったんだろうね。よくわかんないけど、家庭があると色々あるんだよ。いい事も悪い事も」


「まぁ、そうですよね。そんなもんですよね」

 瞬は自分に言い聞かせるようにそう言って、寒そうに腕組した。


「あ!」


 瞬がサロンの入口に向かって、感嘆符を顔に貼り付ける。

 振り返ると、春風が外に出て来た。

 さっきまでのどんよりした顔ではなく、どうにか仕事モードに切り替えたという体裁だけは見て取れる。

 春風はまっすぐ迷いなく瞬に近づき。正面に立った。

 また、トラブルを起こすのではないかとハラハラする。


 そんな潔葉の思いは杞憂に終わった。


「さっきは悪かったな」と、瞬の肩を一回ポンと叩いた。


「あ~、いえ。昨日は、あの後、潔葉さんのレッスンに10分ぐらい付き合って、友達から飲みの誘い入ったんで、遊びに行きました」


「それだけか?」


「はい! それだけです。あ! 肉まんは頂きました。ごちそうさまでした」


「そうか」

 春風は複雑そうな顔をして目を細めた。


「瞬さん、電話でーす」入口が開き、受付のスタッフが瞬を呼んだ。


「はーい、今行きます」

 それじゃあ、と言って瞬は急ぎ足で店内に戻った。


 春風は着ていた黒いニットのパーカーを脱ぎ、潔葉の肩にかけた。


「な、なに?」

「寒いだろ! 風邪ひくだろ!」

「そういう、勘違いされるような事はやめて」


 そう言って、パーカー春風に向かって放り投げた。キャッチした春風は、むっとしてこう言った。


「誰が勘違いするんだよ?」

「みんなよ」

「させとけばいいだろう」

「あなたはいいかもしれないけど、私はいや!」

「いいから着とけって!」


 そう言って、パーカーを潔葉の前に差し出す。


「わざわざそんな事するために来たの?」


 潔葉はパーカーを仕方なく受け取り、袖を通した。手がすっぽりと隠れて、温もりが体を包み込む。

 シャツ一枚になった春風は、腰を引き、両手で自分を抱きしめて腕をさする。

「さぶっ」

「バカね。無理しちゃって~」


 んんっ、と咳払いするとしゃんと背を伸ばしてこう言った。

「昨日はレッスン付き合えなくて悪かったな」


「いいよ、別に。それより今日、奥さんの誕生日でしょ? 店長は歓迎会してくれるって言ってたけど、きっとうっかりしてるのね。日にち変えてもらうようにお願いしておく」


「いや、いいよ。別に」


「どうして? 毎年一緒にお祝いしてるんでしょ!」


「んー、それが。今年はなんか、実家の法事かなんかで帰省するって言ってて。だから、いいんだよ」


「一緒に行かなくていいの?」


「え? どこに?」


「どこって、奥さんのご実家でしょうが!」


「ああ、そうか」


「ああ、そうか?」


「あーーー、いや。うちはそんなのないんだよ。親戚付き合いっていうの? そういう所はドライなの」


「そっ」


「ああーーー! そうだ。あれあれ! マッシュボブ、チェックしたけどさ」

「うん」

「結論から言うとダメ」

「ダメ? どこが?」

「どこがって、左右の長さは違うし、ラインもガタガタだよ。やり直し!」

「わかりました」

「うん。それを言いに来たの。5年もブランクがあるんだ、仕方ないよ。焦らずゆっくり勘を取り戻せばいい。じゃあ」


 そう言って、体をまるめるようにしてそそくさとサロンに入って行った。


 せっかく集めておいた落ち葉は、風ですっかり飛ばされて、また一から掃き直さなくては――。


 ヒラヒラと風に舞う落ち葉を追いかけながら、ちり取りに掃き込んでいると、サロンの前にタクシーが一台停まった。

 後部座席が開き、白いスーツにふわっふわのグレーのファーを首に巻いた女性が降りて来た。

 風に乗って流れてくるシャネルの香りが鼻腔を刺激した。


「ぐしゅんっ」


 香水の匂いは苦手だ。

 上品な栗色の髪は、肩辺りでしっかりカールがかかっていて、10センチはあろうかと思うピンヒールを履いている。年齢は30代後半から40代前半と言ったところだろうか。あでやかなご婦人だ。

 縦にも横にもしっかりと人工的なラインが際立っている目で、ガラス戸から中を覗いている。


「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか?」


 そう声をかけると、ご婦人は潔葉に今気付いたといった風体で、上から下まで視線を移動させると、ゆっくりと浅くお辞儀をした。


「あ、あの……」


 その時だ。


 ガラス戸の向こうに春風が見えた。こちらに向かって歩いて来る。ご婦人に気付いた様子だ。

 扉を押して出て来た春風に、ご婦人はこう言った。


「ごめん。来ちゃった」


 春風は少し呆れた顔をしている。


「来るなら電話してくれたらよかったのに。駅まで迎えに行ったのに」


 そして、親し気に笑い、ご婦人に向かって手を伸ばした。


「いらっしゃいませ」


 その手をご婦人は、はにかみながら掴むと、エスコートされるように店内に消えて行った。


 ――見なかった。


 春風は潔葉に一瞥もくれなかったのだ。

 まるで二人にだけにスポットライトが当たっているかのように、二人だけの世界が出来上がっていた。

 潔葉は空気にでもなっていたかのような気持ちで、その場に立ち尽くした。

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