桃井恵梨香ー②

 津田に背を向けた後、恵梨香は一人、新宿へと向かった。ゴミゴミとした街並みを抜けて、チェーンのコーヒーショップに入る。

 入り口の方向に向かってテーブルに着いている清潔感漂う、女好きしそうな男。紺のニットがすぐに目に付き、恵梨香は少しほほ笑んで会釈をした。

 目線の先で、加賀谷Kagayaは立ち上がり、恵梨香に向かって小さく右手を上げる。

「早かったね」

「加賀谷君こそ、早かったのね」

「そう、30分も前に着いてしまって。あ、どうぞ」

 と、向かいの席に手を差し出した。


 加賀谷は高校時代の同級生だ。例の配信を観たと言って、突然SNSから連絡を寄越してきた。


「偶然ね。加賀谷君も新宿に住んでたなんて」

「大学からこっちだからね」

 あの頃よりも少し大人びた、落ち着いた口調でそう言ってほほ笑んだ。

 あの頃と変わらない、縁のないメガネがインテリっぽい。


「全然変わってないね」

 恵梨香がそう言うと

「君、すっごく変わったよね。別人だよ。だから全然伊藤Itouさんだって気付かなかった。桃井恵梨香が伊藤美穂Itou Mihoだったなんて」

 加賀谷は頬を紅潮させて、興奮気味にそう言った。

 そりゃそうだ。伊藤美穂は死んだのだ。ダサくてブスで冴えない女。伊藤美穂は桃井恵梨香に生まれ変わったのだ。

「整形したからね」

 そう言うと、加賀谷はしばし目を泳がせて「今どきだね~」と、当たり障りのないコメントを残し、すっかり湯気のなくなったホットコーヒーを啜った。


「ご注文お決まりですか?」

 注文を取りに来たウェイトレスに「ホットコーヒー」と告げて、手に持っていた小ぶりのハンドバッグを足元のバスケットに入れた。

 加賀谷は思い出したように、テーブルに伏せてある読みかけだったらしい文庫に栞を挟んで、足元のバスケットに仕舞う。


「なんで、私だって気付いたの?」

 恵梨香の質問に加賀谷は少し考えるそぶりを見せて、こう言った。

「声と訛りかな。桃井恵梨香がしゃべってるのをあの配信で初めて聞いたんだ。もっとも最初は桃井恵梨香だってわからなかった。あの配信では声しか聞こえなかったからね。雑誌で写真しか見た事なかったから。視聴者のコメントで桃井恵梨香がしゃべってるんだってわかったんだけど、声だけ聞いてたら、まんま伊藤さんだったから」


「そっか、そんなに特徴ある? 私の声って」

「あるよ。声もだし、口調とか」

「そっか」

 顔を変えても声でバレるなんて、不覚だった。そんな心の中を隠しもせず、恵梨香は唇を尖らせる。


 加賀谷からの連絡は突然だった。桃井恵梨香のSNSではなく、高校生の時から登録したままだった伊藤美穂のSNSの方に寄越してきたのだから驚きだ。


「神戸には? たまに帰ったりしてるの?」

 加賀谷が、早速本題に入るようだ。


「全然。もう何年帰ってないかしら。高校卒業してからずっと……だから、8年、家族とは会ってないわ」


「帰らない理由とかって聞いていい?」


「いいわよ。うち、3人兄弟なんだよね。弟が二人いるんだけど。3人とも父親が違うの。最終的に一番下の弟の父親が、我が家の父親って事になってたんだけど、母親は、その人とも別れて、また違う男と住んでるのよ。気まずいじゃない、そういう状況」


「あ~、確かに。しかし、なかなか複雑だね。お母さんは娘に会いたいとか思わないのかな?」

「さぁ、どうだろう?」

 そもそもあの女に、母親を名乗る資格などあるのだろうか。娘に会いたいなどと思う資格が――。

 恵梨香は次々に男を変える母親の姿を一番見て来たが、母親の気持ちなど雲をつかむような物だ。

 絶対にああはなりたくないというお手本である事には違いないが――。


「お父さんとは。面識……というと、変だね。お父さんの記憶とかは?」

「それはあるわ。高校生の時までは時々会ったりしてたしね」

「高校卒業後は全く?」

「そうね」


「それは、津田拓海との不倫が関係してる、とか?」


「それはないわ。両親は桃井恵梨香を伊藤美穂だと知らないわ」


「ええー? そんなに無関心でいられるもんかなぁ?」

 加賀谷は体をのけ反らせて、腕を組んだ。


「まぁ、普通の家庭に育った人にはわからないでしょうね」


 加賀谷は眉を上げて、おでこにしわを作ると、辺りを見回して、こちらに身を乗り出した。声を潜めてこう訊いた。


「初体験の事とか、聞いてもいい?」


「もちろん」

 恵梨香も少しテーブルに体を寄せて、声のトーンを落とした。


「実は、初めての相手って津田さんだったんだよね。二十歳だったんだけど、それまで全く経験なかったのよ」


「あ~、何となくわかる。伊藤さんって、長期休み明けとか、体験しちゃった話に花を咲かせる女子を、冷めた目で見てた印象だったな。簡単に男と寝ない印象だった」


 そんな立派なもんじゃない。モテなかっただけだ。


「えっとー。確か、津田さんの周年パーティに呼ばれたんだよね? その日?」


「ううん。その日は連絡先を交換しただけ」


「具体的には、その後どれぐらい経ってから?」


「一週間後にキス。一ヶ月後に最後までって感じ」


 高校の時の友達は皆、初体験の感想を『痛かった』と語っていた。ひたすら痛いのを我慢する闘いの時間だったと。それ故、恵梨香はセックスに対して恐怖心を抱いていたが、津田との行為は、イメージしていた物とは全く違っていた。


 ――甘く、楽しかった。


 津田の唇が、声が、言葉が、体を優しくなでるたびに、これまで空っぽだった心を満たしていった。快楽の余韻は、自尊心を満足させ愛される喜びを教えた。


 初体験にして、絶頂を味わった恵梨香の体を、他の男が満たせるわけなどないのだ。


「きっと、幸せな時間だったんだね、君にとってその時間が」

 加賀谷は心の中まで覗いたような事を言う。


「え? どうして?」

「いや、そういう顔してたから」


 一体、どんな顔をしていたのだろうか。熱くなる頬を、冷たい手の甲で冷やした。


「単刀直入に訊くんだけど……」

 加賀谷は更に声のトーンを落とす。


「津田さん以外の男とは付き合った事ないの?」


「ないわ」

 恵梨香は嘘を吐いた。春風の事は言う必要ない。これ以上、迷惑はかけられない。


「なるほどね~。それじゃあなかなか忘れられないのもわかる気がするな」


「男って本当に単純ね。おめでたいとでも言うべきかしら。もうきれいさっぱり忘れたわ」


 いつの間にか、テーブルの端で湯気上げていたカップの取っ手を掴んで、口元に運んだ。


「じゃあ、なんでここへ来たの?」


 加賀谷は、試すようにそう言うと、いやらしく笑った。

 恵梨香は答えず、二口目のコーヒーを啜る。


「じゃあ、そろそろ、君の家に移動しますか」

 加賀谷はそう言って伝票を握った。


「そうね」

 恵梨香はハンドバッグを取り、立ち上がった。

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