第2話 寂しさのわけ

 駅へ向かう人波をかき分け、春風は小走りで自宅を目指す。

 生乾きの服は冷たい風にさらされて、ひんやりと体にまとわりつく。怒涛の一日だった昨日を反芻しながら、自宅マンションのエントランスで暗証番号を打ち込んだ。

 ゆっくりと開く重厚感のあるガラス扉。

 中に入ると幾分寒さは和らいだ。


 一階で止まっているエレベーターに乗り込み、今にもニヤけそうな頬に力を入れる。

 初めて見た潔葉の体が瞼の裏に焼き付いて、生々しく脳内で再現される。

 床の水分をすっかりふき去ると、びしょ濡れで床に転がる潔葉は目を閉じ、体を丸めて寒さに震えていた。


 ぴったりと体に張り付いた白いブラウスは、既にその中身を浮き上がらせ、体の中心を熱くする。

 できるだけ見ないように、潔葉を後ろ向きに座らせ、背中の方から抱え込むようにしてブラウスのボタンを外した。


 しぼりたてのミルクのような白い肌が露わになり、背中のホックを外す。

 均整の取れた細い体にはふくよかな胸。薄く色づいた乳輪に、つぼみのような乳首が壁に立てかけてある鏡に映っていた。


 紅潮した頬で髪を乱しながら、春風の上で天を仰ぎ、体を前後に揺らす潔葉は、宇宙一可愛い声で喘いでいた。

 指の間からはみ出すほどの胸を揉みながら、春風は絶頂を我慢した。蕾を指先でもてあそぶと隣の部屋が気になるほどに声を上げて体をくねらせた。


 そんな夢を見ていた。


 記憶がないなら胸くらい揉んでおけばよかった。それだけが悔やまれてならない。


 にやけを抑え込むために口を塞いでいた手を、硬くなり始めている股間へ移動し、ぎゅっと抑えた。


 チン! とエレベーターが到着を知らせ、自室へと急ぐ。

 住人の誰とも会わなかったのは幸い。どこからどう見ても、変態の顔をしていただろう。はちきれんばかりの欲望と理性の狭間で、急いで開錠し玄関を通り過ぎ、風呂場へと急ぐ。

 パーカーもシャツもTシャツも全てまとめて脱ぎ、ジーンズとパンツを一緒に下ろし、その流れで靴下もはぎ取る。


 熱いシャワーを頭で受け止めながら、パンパンに膨れ上がった欲望を本能のままに解き放つ。


 訪れる心の静寂。

 落ち着きを取り戻し、体を洗いながら湯舟に湯を張った。


 体を覆う泡を洗い流して湯舟に浸かり、足を伸ばすと水滴をしたたらせる天井が視界を覆った。

 39度の湯に揺られながら筋肉痛を抱える左肩を回すと幾分軽くなる。ついさっきまでそこには潔葉の頭が乗っていた。

 冷え切った潔葉の体は春風の体温を移しとり、徐々に温もりと柔らかさを取り戻した。清艶な匂いを放ちはじめた柔らかい髪に、春風はそっとキスをした。


 昨夜――。

 バルから一人飛び出した潔葉を春風はすぐに追いかけた。

 放射冷却がはげしくなる深夜前。外は5度を下回っていた事だろう。足元のバスケットの中に丸めて入れておいたパーカーを手に、エレベーターで一階に向かった。

 賑わいを見せる繁華街の人ごみに紛れて、ビルの壁に寄り掛かり、空を見上げている潔葉をすぐに視界が捉えた。

 春風の存在に気づいた潔葉は、ぷいっとそっぽを向く。

 春風はお構いなく潔葉にかけより、パーカーを肩にかけた。

『どうしたの? なんで怒ってるの?』

 潔葉はぼろぼろと涙をこぼしてこう言った。

『教えてあげない』

『なんで?』

『あなたが、既婚者だからよ』

『既婚者だから怒ってるの?』

『ちがーう!』

 潔葉は泣きながら春風の両肩をぎゅっと握り前後にゆらした。

『既婚者のくせに、優しくすんなー。そんな目で見んなー。そんな声で話しかけんなー!!!』

『わかった、わかったから、落ち着こう』

 これではまるで、女を泣かせている悪い男みたいだ。

 春風は潔葉の暴動を抑え込むように抱きしめた。いや、抱きしめようとした。

 

 しかし、潔葉の抵抗は激しくなるばかりで、なかなか春風の両手には収まらない。


 収まらないばかりか、暴挙は激しくなる一方で、歩道を行きかう人に向かって叫び始めた。

『この人はー、既婚者のくせにー、誰にでも優しくする悪い男でーす。皆さん気をつけてくださーい。シュガームーンっていう美容室の―――』

『待て待て』

 慌てて口を塞ぎ、ビルの隙間に引きずり込もうとした。しかし、酔っ払いの底力はハンパない。掴んでいる手を振り切る。それをまた掴む。振り切る。掴む。何度目かの攻防の末、潔葉は春風の手を振り切った拍子に、ごろんとアスファルトに転んでしまった。

 転んだと言うよりは転がったと言った方が正しい。

 通行人はチラ見しては通り過ぎる。スマホのカメラを向ける者もいる。

『大丈夫?』

 と駆け寄り、起こそうとするとするりとすり抜け、ごろごろと地べたを転がり出した。両手を上に上げ、ばんざいをしたまま。右へ左へ。

 その顔はもう泣いてはいなかった。

 ケタケタと笑いながら、アスファルトの冷たさを楽しんでいるかのように転げまわる。とっくに肩からずり落ちているパーカーを回収し、春風は息を切らしながら、追いかける。

 立ち上がらせようとするも、よっぽどアスファルトの上が気持ちいいのか、全然起きようとしない。

 文字通りめくるめく渋谷の夜の景色は、さぞ刺激的だったのだろう。

 そこへ、田中と瞬と姫香がやってきた。

 昼間の姿とは打って変わり、悪霊に憑りつかれたような姿になってしまった潔葉に一同は唖然。

 田中と二人がかりで抱え、瞬と姫香はタクシーを止め、ようやく事態は終息した。


 帰りのタクシーの中で潔葉に訊ねた。

『一人になって寂しいの?』

 離婚したばかりの慣れない生活環境できっとナーバスになっているのだと思ったのだ。たまにはメシでも――なんて言うセリフを準備していた。


 潔葉はゆらゆらと首を横に振りこう言った。


『二人でいたときより随分まし。彼はいつも他の誰かの寂しさばかりを埋めてたんだから』

 

『他の誰か?』


『そう。私の知らない他の誰か――』

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