第6話 鋼の巫女に男の影
◆◆◆Side―潔葉
「37度3分かー。微妙」
次の朝、体温計の叩き出した数字を見ながら潔葉は逡巡する。
春風が買って来てくれていた風邪薬のお陰で、昨夜に比べたら体は随分軽く、喉の違和感もなくなっている。
潔葉一人が店を休んだからといって、今のところ誰に迷惑をかけるわけでもない。休むか、それとも出勤するか、悩ましい所である。
「う~~~~ん。よし! 行く!!」
と布団から体を引っぺがして、ベッドから降りる。フローリングがひんやりと素足を冷やす。つま先立ちで移動し、電気ヒーターのスイッチを入れた。
ブゥオーーーンと滑らかに点灯して、ほわんと温もりが体を包む。
神々しいオレンジ色の光に向かって手を合わせた。
――春風。ありがとう。
そして、改めて偉大な愛妻家にリスペクトを禁じ得ない。
昨夜――。
「奥さんの事、愛してる?」
という、潔葉の問いに、春風は平然とこう答えた。
『当たり前だろ。嫁さんなんだから』
そしてこちらに背を向けかけて、もう一度振り返ると冷蔵庫を指さしてこう言った。
『おかず作り置きしてある。あんまり無理せずに困った事があったら相談しろよ。おっとそうだ』
そう言ってパーカーのポケットからドラッグストアで買って来たと思われる風邪薬を差し出した。
『忘れるところだった。これよく効くから』
そう言って、テレビコマーシャルでおなじみの風邪薬を潔葉の手に握らせた。
冷蔵庫を開けると、ジップロックに小分けされたきゅうりとちくわの酢の物、鶏そぼろ、それに味たまが入っていた。
『奥さんにもこんな風に作ってあげてるの?』
そう訊ねると、『あ、え? うん。そうそう。うちの嫁さんは料理が苦手なんだよ』
春風はきっと、何もかもを知った上で奥さんを愛しているのだ。例え浮気をしようとも、こうしてご飯を作って待っているのか。
その健気さに、なんだか泣きそうになった。
自分はどうだっただろうか。
夫の曖昧な態度を浮気と決めつけて、信じられなくなって、自爆した。
愛する事に疲れてしまっていた。
テーブルの上で充電中だったスマホを取り、久々にツイッターにログインした。
匿名で作ったアカウントのハンドルネームは【キヨハート@サレ妻元美容師】。
タイムラインには、今日もサレ妻たちのどんよりとした呟きがおすすめ表示されている。
サレ妻仲間と繋がれば、フォローもしていないサレ妻のツイートがおすすめ表示されるのだ。恐るべしアルゴリズム。
離婚した当時の潔葉のツイートには『今日も帰りが遅い』『LINE既読無視』『時間と共に心の酸素がなくなっていく』『助手席の座席シートの位置が変わってる』『車の中に口紅落ちてたー』そんな呟きが並んでいる。
このアカウントに、奥菜社長から連絡があったのは今年の5月。
初夏を思わせる若葉が目にしみる昼下がりだった。
個人情報部分に黒い線を入れて、離婚届けの画像をアップした。もやもやとした結婚生活にピリオドを打ち、自分の人生を歩いていこうという決意表明。
そして一人で区役所に行き、提出した、その直後の事だ。
『初めてメッセージを送ります。私は渋谷で美容サロンを経営している奥菜百合子と申します。突然のDM大変失礼致します。
いつもあなたのツイートを拝見しており、心の中で応援しておりました。新しい出発を応援させていただきたく、失礼を承知でお声をかけさせていただきました。
もしよろしければ、うちのサロンでお仕事してみませんか?
お話だけでもいかがでしょうか?』
そのメッセージの後には、奥菜社長の電話番号が記されていた。
当時、潔葉はデパートの美容部員として働いていた。美容師だった頃の経験が生かせて少しでも誰かの役に立ちたいという思いからだ。
そもそも表参道シュシュを辞めたのは、家庭と仕事の両立が難しいと考えたからではなかった。
夫と同じ職場というのが、なかなかにやりづらかったのだ。いい評価を得ても風間真司の妻だから――。さすが風間さんの奥さん、と言われる事にいつも不満を抱えていた。独立した一人の美容師として評価されたかった。それに――。
何よりも、彼が時々仕事をしながら切なそうにしている姿を潔葉は見逃す事ができなかった。
時々、違う場所に意識を飛ばしている。物思いに耽るとでもいえば伝わるだろうか。どこか遠くに、とても大切な人がいるかのような顔で、潔葉の存在を通り越して、ガラス張りの壁から外を眺めていた。
確固たる証拠などない。単なる第六感に過ぎないのだが、風間には、好きな人がいた。
『私は誰かの代わりなの?』
そんな潔葉の叫びを彼は否定してもくれなかったのだ。
表参道シュシュを退社後は、美容師としての再就職は難しかった。有名店のトップスタイリストの妻、というだけで、他のサロンも潔葉の採用には難色を示した。
恐らく、スパイ行為を案じたのだろうと思う。自店の情報がライバル店に筒抜けになってしまうと考えたのだ。
常日頃、美容師として復帰したいと考えていた潔葉にとっては、奥菜からのメッセージは夢のようなお話だった。
潔葉はその電話番号にすぐに電話をかけた。
離婚直後という事もあり、まだ住まいも整わない不安定な時期だったため、復帰の意思はあるが、すぐには身動きが取れない旨を伝えた。
奥菜社長は落ち着くまで待つので、都合のいいタイミングで改めて面接をさせて欲しいと申し出てくれた。
一ヶ月後のテストというのは、あくまでも勘を取り戻すためのプロセスであって、それで採用の可否は問わない。
つまり、テストの出来栄えがどうであれ、本採用は決まっているというわけだ。
だが潔葉は、テストに向けて最大限の努力をしたかった。せっかく声をかけてくれた奥菜をがっかりさせたくなかったのだ。
スマホを操作し、DM一覧から奥菜をタップした。
これまでやり取りしたチャットが表示される。当時、アイコンの設定はしていなかったが奥菜はツイッターのアイコンを自撮り画像に変えていた。
アイコンをタップすると、奥菜のツイートが表示される。
当時は、ニュースや美容ネタのリツイートが殆どだったタイムラインには、いくつか写真がアップされている。
ゴージャスなリビング。奥菜の自宅のようだ。誰も入った事がないシュガームーンの二階。サロンのスタッフは誰もこのツイッターを見る者はいないと、奥菜は言っていた。
いわば、完全プライベートなSNS。
カーテンのかかった大きな窓に向かって展開されている豪華なダイニングテーブルの上には、シャンパンとグラスが2つ。
奥菜が手づくりしたであろうこじゃれた料理が並んでいる。
艶やかなテーブルの上には、2つの影。
長い髪が奥菜。その隣には背の高い男性らしき影。
鋼の巫女なんて言われていたが、ちゃっかり男がいるようだ。
日付は先週の金曜日になっていた。
ダイニングの椅子の上には見覚えのある上質な紙袋。これは――!
表参道シュシュのオリジナル化粧品をお買い上げのお客だけがもらえる、特別な紙袋だ。通常はヘアのお客におすすめして店販として買ってもらっていた化粧品なのだが、化粧品だけを買ったのだろうか? それとも顧客?
少なくとも、潔葉が勤務していた頃には奥菜は客として来ていなかった。
最近通い始めたのだろうか?
しかし、自分の店がありながら他店を利用するとは、なんとも不自然な事のように思えた。
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