第5話 タバコと香水

 ◆◆◆Side―潔葉


 入社してから1週間が過ぎた。


 潔葉は、閉店後のサロンでクランプに突き立てたカットマネキンとにらめっこをしている。

 テストの課題であるマッシュボブをもう何回切っただろうか。

 一日に最低でも3体のカットマネキンを消費している。1体が3000円以上もするマネキン代が潔葉の懐を苦しめていた。

 この日の食事は朝も昼もおかか梅のコンビニおにぎり一個ずつ。それだけだ。

 帰りにカップラーメンでも買って帰ろう。一人暮らしだと、自炊するより出来合いの物をやインスタント物を買った方が経済的なのだ。


「おつかれー」

 声の方に視線を遣ると、扉が開き、春風が入ってきた。その後ろからは春風の妻。千鳥格子のチェスターコートに身を包んだ桃井恵梨香が異様なオーラを漂わせ、にこやかについて歩く。腰だけをベルトで結んでいるコートの裾からはモーブピンクのミニスカートが覗いている。そこから伸びる脚は生々しく女性が見ても色気を感じる事だろう。きっとストッキング一つにも気を配っているに違いないが、家庭的な雰囲気は、全くと言っていいほど感じない。


「こんばんはー。主人がお世話になっております」

 浅くお辞儀をして、店内のスタッフに笑顔をまき散らす。その挨拶がどこかちぐはぐで、芝居がかって見えるのは元モデルというバイアスがかかっているせいだろうか。

 店内には緊張感が走り、皆、手を止め恵梨香に向かって丁寧に頭を下げる。

「お疲れ様です」

「よろしくお願いします」


 今日は、ヘアショーのために髪のメンテナンスや、衣装、ヘアスタイルの打ち合わせをするらしい。

 ――家でやれよ。

 と、潔葉は思う。


「恵梨香さん、お久しぶりね。この度は快くモデルを引き受けてくださり感謝するわ」

 社長の奥菜が手を差し出すと、恵梨香は心が通じているかのようにその手を取り握手に応じた。

「ご無沙汰しておりました。こちらこそ光栄です。よろしくお願いいたします」

 その脇に突っ立っている春風が、挙動不審に見えるのは潔葉だけだろうか?


 挨拶をした後、春風は丁寧にコートを脱がせ、恵梨香を一番奥のセット椅子に座らせた。

 潔葉から数えて3つ目の椅子だ。大きく胸元が開いている白いニットからは、深い谷間。夫の職場に行くのに、あの服をチョイスするとは度胸の据わった奥さんだ。

 強調されている胸元に、男も女も誰もがチラチラと視線を向けている。


「コーヒーをお出しして」

 奥菜が潔葉の背中に手を置き、そっと耳打ちした。

「わかりました」

 奥菜は、つい先ほど完成させたマッシュボブに視線をやると、「なかなか上手に切れてるわ」と満足気に笑った。

「本当ですか? ありがとうございます」

 奥菜は優雅にうなづいて、螺旋階段を上って行った。


 控え室に入ると、既にコーヒーメーカーにはコーヒーが満たされていて、芳醇な香りを充満させていた。簡素な食器棚からお客用のカップを取りコーヒーを注いだ。

 シュガーとミルクとティスプーンを添えてトレーに乗せ、フロアへ出た。


 背中を覆うカールのきいた恵梨香の長い髪を、春風がコームで解いている。

「失礼します」

 と、声をかけて、サイドのワゴンにコーヒーを置いた。

 恵梨香は潔葉に向かって浅くお辞儀をした。その瞬間、漂ってきた匂いに、はっと気を取られた。

 この匂いは――。

 先週の金曜日、渋谷の肉バルのトイレでそっくりさんに遭遇した時、彼女も同じ匂いを発していた。タバコの匂いを香水で誤魔化しているような。春風がそっくりさんだと言い切ったあの女性と同じ匂いだ。

 恵梨香の顔を鏡越しに見たが、やはりあの時の女性ではないか?

 この髪色、このリップの色。そして鏡の前のディスプレイ代に置かれているゴールドのメイクポーチ。これは間違いなくあの時、そっくりさんが使っていた物だ。

「なに?」

 春風が警戒するように潔葉に目を止めた。

「いや、なんでも……」

 トレーを胸に抱きかかえ、慌ててその場を後にした。


 そっくりさんを連れてきたのだろうか? いや、そんなわけない。普通に考えて奥さんはやっぱり浮気しているのだ、と思う。

 それを春風は知っているのか?

 だから、何も言わずに見過ごしたのではないか。

 そこまでして、この奥さんとの暮らしを守りたいのだろうか?

 自分の誕生日を夫ではなく他の男性と過ごすような奥さんを、春風は本当に愛しているのだろうか?


 一人ではとても抱えきれない秘密を握ってしまったようで、他の事が手に付きそうにない。

 それに、なんだか今日は一段と体が重い。マネキン代に消費して、あの水没した電気ヒーターの代わりをまだ買えていないばかりか、まともに食事も取れていないのだ。

 手の甲を首元に当てると、明らかに熱い。

 それに気づいてしまうともうダメだ。

 どんどん熱が上がって来るような気がして、目の奥がじんと熱くなる。何だか喉もイガイガするような気がする。

 今日は切り上げよう。


 道具を片付け、春風に背後から声をかけた。


「山道ディレクター。ちょっと今日は体調がすぐれないので上がります」


 春風は高速で振り返ると、心配そうな顔を見せた。


「大丈夫? 風邪?」


「多分。なんだか熱っぽくて」


 鏡越しに、恵梨香と目が合った。


 春風は潔葉の額に手を伸ばしたが、潔葉はそれを素早くよけた。

「大丈夫です。それではお先に失礼します」


 奥さんに変に勘違いされては困る。こういうのはおあいこではダメなのだ。余計に相手を付け上がらせる。

 潔葉は何だか急に春風が気の毒に思えて、恵梨香に対する怒りがふつふつと沸き上がった。コーヒーに唾でも吐いてやればよかったとまで思う。


 トートバッグを肩にかけて、サロンを後にした。

 外気は身を切り刻むように冷たく突き刺さり、震えが止まらない。

 バスに乗れば多少は楽なのかも知れないが、バス代がもったいない。15分ほどの道のりを小走りした。


 倒れ込むように部屋に入り、コートだけを脱いで、そのままベッドにもぐりこんだ。


 そのまま気を失ったように眠っていた。


 グツグツと温かい音で目が覚めた。

 あんなに寒いと思っていたのに、体は汗でしっとりと濡れていて、ようやく布団から出る事ができた。

 起き上がってみると、キッチンにはなぜか春風がいる。

 トントントンと音を立て、まな板の上で何かを刻んでいるようだ。

 いろいろと訊ねたい事は山ほどあるが、先ずはこれだろう。


「どうやって入ったの?」

 このマンションはオートロックでドアを閉めたと同時に施錠される仕組みになっている。暗証番号を知っている人しか入れないはずだが、暗証番号など、春風はおろか、誰にも教えていない。


 ――夢?


「おお! 起きたか。大丈夫か?」

 包丁を片手に春風が振り返った。

 部屋の角には、グレードアップされた新品の電気ヒーター。


「これは?」とヒーターを指さすと春風はにっこり笑ってこう言った。

「買ってきた」

「え? そんなの悪いよ、いくら? お金払う」

 春風は少し困った顔をした。

「まぁ、そのうちでいいよ。プレゼントって言いたいところだけど、お前がそれじゃ嫌なんだろう」

 潔葉はうつむいた。春風の気遣いが、泣きたくなるほど嬉しかった。


「なんていうか、ありがとう。部屋があったかくて嬉しい」


「ほら、メシできたぞ」

 そう言って、タオルをミトン替わりに、小さな土鍋をテーブルに運んだ。


 グツグツと気泡と湯気を立てる煮込みうどん。透き通った琥珀色の出汁に、かまぼこやちくわ。たまごに青ネギまでトッピングされている。

「おいしそう」

 ぐ~~~~っとお腹が鳴った。


 取り皿の代わりに、ごはん茶碗まで添えて、「早く食え」とまるでお父さんのような口調でそう言った。


 夢でもありがたかった。つるんとしたうどんを茶碗に移して一口すすると、体中を幸せが満たした。

「おいしい。この出汁なに?」

「かつお出汁」

「自分で取ったの?」

「うん」

「すごくない? 春風、料理男子だったんだね」


 そういうと、春風は複雑な顔を見せた。その顔を見て思う。

 きっと奥さんは料理なんてしてくれないんだろうな。


 しかし、この疑問だけは無視してはいけない。


「どうやってこの部屋に入ったの?」

 ずるずるっとうどんを啜る。

 春風は、平然とこう言った。


「この前、酔っぱらって送った時あったじゃん。あの時に……覚えた。俺、記憶力いいから」


 潔葉はバンっと箸をテーブルに置いた。

「それって変態な犯罪行為ですからね!! それもその記憶力のいい頭でよ~く覚えておいてくださいね!!」


 春風はパーにした両手をこちらに向けて「まぁまぁ、そんなに怒るなって。緊急事態だったんだよ。インターホン押しても音沙汰ないし。大丈夫かなって」


「ふうん」


「さて、俺、そろそろ帰るわ。じゃあな」

 と立ち上がり、玄関に向かった。


 潔葉はその背中を追いかけた。


「春風!」

 春風が振り返る。


「ん? なに?」

 これだけは訊いておきたい。


「奥さんの事、愛してる?」

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