第2話 償いと疑心暗鬼
◆◆◆Side-津田拓海
消毒液の匂いがキーンと張り詰める病院の通路。慌ただしく行きかう医療従事者たちの緊迫感が、津田の不安を募らせる。
緊急処置室とかかれている部屋の前に、瞳が運び込まれてから、どれほど時間が経っただろうか。どこからともなく聞こえる秒針の音が、いやと言うほど現実を刻む。
瞳からの手紙の内容を脳内で反芻しながら、狭い通路に置かれている椅子の上で、体側によりかかる優斗の背中を、津田は無言でなでている。
優斗を励ましてるつもりが、いつの間にかその存在が津田を支えていた。
上下緑色の作業衣を着た一人の医師が、緊急処置室から出て来た時には、優斗は津田の膝の上に頭を乗せて、小さな寝息をたてていた。
起こすのも可哀そうだ。
座ったまま、気の毒そうな表情を浮かべる医師に、顔を向けた。「大貫さんですか」とても言いにくい事を言わなければならないというようなその表情に、顔面が引きつる。
「はい」
覚悟なんてものはまだできていない。生きててくれ、瞳。
「今のところ、どうにか容態は安定しています。小康状態がしばらく続くと思いますが、意識を取り戻すかどうかは、ご本人の生命力次第です。できる限りの事はしましたし、今後も延命の努力はします。奥様も今、頑張っていると思います」
はぁーっと、思わず安堵の息をもらす。
「そうですか。よかった、ありがとうございます」
「夜が明けて、朝の10時には特別病棟の個室へ移動します。そしたら、面会する事も可能ですので。もし会わせたい人がいらっしゃいましたら、今の内に連絡を……」
医師は尻すぼみに言葉を濁した。
――会わせたい人……。
瞳は朦朧とする意識の中で、確か、『ハルカゼ』と言った。『来てくれたのね、春風』
津田にはそう聞こえた。
春風という名前に一人心当たりがあるが、まさか――。
あの男が瞳と接点があるとは思えない。
「このまま入院になりますので、手続きをお願いできますか」
「わかりました」
医師に促され、膝に乗っている優斗の頭の下からそっと脚を抜き、長椅子の上に横たわらせた。着ていたコートを脱ぎ、寒くないようにと小さな体を覆ってやった。
深夜の救急外来待合には、ぽつりぽつりと人がいる。誰もが痛みを持て余し、苦痛に顔を歪め、名前を呼ばれるのを待っている。
しかし、その空間はなんとも静かで穏やかだった。
「大貫さま」
と名前を呼ばれ、窓口に行くと、「先にこちらをお返します」。事務服の疲れた顔の女性が、診察券と保険証を差し出した。
瞳の鏡台から持ってきたポーチを開けて、それを仕舞おうとした手を、津田は思わず止めた。
来た時は焦っていて気付かなかった。
『お薬手帳』の横に、一枚の黒いカードが入っている。どうやら名刺のようだ。
そこに書かれている名前に、絶句した。
【美容室シュガームーン
ディレクター
山道春風】
名刺を持つ手が、ぶるぶると震える。
脳内に忽然と浮かび上がったひとつの点。たった一つの点を結びつける線が、これまで瞳の事などほとんど見てこなかった津田に、見いだせるはずもない。
このまま瞳の意識が戻らなければ、瞳が最後に口にした言葉は『来てくれたのね、春風』。
瞳はこの男と、何があったのだろうか? ただの客か? しかし、それならなぜ、あの状況でこの男の名を呼んだのか?
あらぬ妄想は、ふいに侵入したけがれた野良猫のように、津田の胸を這いずりまわっては爪を研ぐ。
寝取られていた? そんなバカな。瞳はそんなに容易い女じゃない。
居ても立っても居られない気持ちにそう蹴りをつけて、受付の女性が差し出す書類に目を通した。
数枚の書類に言われるまま署名をし、優斗を寝かせておいた通路へと戻る。
ぐったりと脱力している優斗の体は、ずっしりと重い。
どうにか背中に背負って、出口へと向かった。
ロータリーで客待ちしているタクシーに乗り込み、自宅住所を告げると、優斗が目を覚ました。
「ママは?」
「大丈夫だ。ママは今病気と闘ってる」
拭いきれない不安を抑え込むように、優斗は津田の腕にしがみついた。
「ママ、死んじゃいやだ」
今朝まで元気に凛と佇み、笑顔を咲かせていた瞳の死という物が、誰よりも受け止め切れていないのは津田だった。
これからずっと続いていくと思っていた結婚生活。
幸せな未来を信じていたというのに。
突然ふりかかった魔物に首根っこを掴まれて、無理やり現実を見せつけられているようだ。
「大丈夫だ。ママは死なない」
今はただ、そう言って現実逃避するほかない。
家に帰り着くと、全身が鉛をまとったように重く、すぐにベッドになだれ込みたくなる。しかし、そうはいかない。ジャンパーを着たままダイニングチェアに腰かける優斗は、これから食事をするつもりでいるようだ。
朝食を食べていらい、何も食べていないのだろう。
お腹空いたとしきりに訴えてきていた優斗に、ずっと我慢をさせていた。
津田は上着を脱ぎ、椅子の上に雑に引っかけて、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、驚くことにたくさんのタッパーに、いろんな種類のおかずがストックされていて、全てラベルがついている。
冷凍庫には、うどんやそばが小分けしてあり、すぐに使える状態である。
「優斗、うどんでいいか?」
そう訊ねると、「うん!」と元気よく返事をした。
ジップロックに入って冷凍されている琥珀色の塊は、【うどん出汁・600w3分30秒】とレベルが貼ってあった。
「600ダブリュー、3分30秒ってなんの事だ?」
独り言を言うと、優斗がトタトタとやって来てこう言った。
「電子レンジで600ワット、3分30秒加熱するっていう意味だよ」
「そ、そうなのか。ありがとう」
うどんの具材になりそうな物はないかと、タッパーのレベルを一つ一つ確認すると、【牛肉のしぐれ煮】がある。これは600w1分30秒。
それらをレンジで温めながら、津田は不覚にも目頭をおさえた。
瞳はいつ自分が意識を失っても、夫や息子が困らないようにと、いつもこうして準備をしていたに違いない。
心臓がねじきれるほどの痛みをこらえ、喉の奥から熱く込み上げる涙をのみこんだ。
そして改めて、一生、瞳の夫として生きていく事を誓った。
どれほど償っても償いきれない。ごめんも愛してるも、もう瞳には届かないかもしれないのだ。
驚くほど簡単に、完璧に仕上がった肉うどんに、ストックしてあった温泉たまごを乗せて、優斗と一緒に食べた。
「パパ、美味しいね。上手にできてよかったね」
どうにか明るさを取り戻した優斗に救われる。
「そうだな。ママはすごいな」
お腹も膨れて、体も温まり、はみがきをさせて優斗を寝かせた。
津田は、まだ寝るわけにはいかない。入院の準備をしなくては。
食器を片付けて、瞳の部屋のクローゼットを開けた。
きちんと種類ごとに整理されている服。その上の収納棚には、見慣れない白い箱がたくさん並んでいる。
――なんだろう?
一つ、手に取り開けてみると、長い髪のウィッグだった。
そう言えば、抗がん剤治療で髪が抜ける事があると聞いた事があった。
しかし、その箱は全部で16個もある。
全て開けてみると、長さやカール、毛色が全て異なっていて、中には驚くほど派手な髪型もある。津田が知っている瞳は、こんな髪型を好むような女じゃないはずだ。
箱の中には、説明書のような物が入っていて、こう書かれてあった。
【オーダーメイドウィッグ・担当スタイリスト・山道春風】
その紙は全ての箱に入っていた。
箱の底には値札が入っていて、驚くような金額が表示されている。どれも大体15万から25万。
ここで、浮かび上がった二人の接点。それは恐らく行きつけの美容室でひいきにしている美容師。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。
知りたいような知りたくないような、複雑な思いを抱えつつも、瞳の部屋を漁った。
服の隙間、引き出し、ポケットの中、下着に至るまで全て引っ張り出して、真実を探す。
鏡台の引き出し、本棚、収納ボックス。
しかし、それのどこにも、二人に関する情報を見つけ出すことはできなかった。
降り積もる疑心暗鬼。
これまで、何の警戒もしていなかった恵梨香の元婚約者、山道春風。恵梨香はあっさりあの男を裏切って津田の元へ戻って来たのだ。道端に転がる石ころに過ぎない存在だった男が、今、津田の斜め上から見下し、あざ笑っているかのような感覚に陥る。
喉元を掻きむしり、暴れ出したい気持ちをぐっとこらえて、夜明けを待つ事にした。
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