第3話 直接対決・春風VS津田

 ◆◆◆Side-春風


 ブァキっ!!! と頬に拳が突き刺さったのは突然の事だった。

 いきなりふりかかった災難。

 一体何が起きているのか。ズッキン、ズッキンと疼く頬を抑えながら、春風は順を追って記憶を辿らなければならなかった。


 今にも雪がちらつきそうな曇り空。目的地である職場の美容室はすぐ目の前。扉に手を伸ばした瞬間、後ろから襟元を掴まれ、たたらを踏んだと同時に、左頬に拳が飛んできたのだ。


 チカチカと火花が飛び散る目を刮目して、顔を上げると修羅の形相の、くたびれたおっさんがいた。

 その男には見覚えがある。いや、忘れたくても忘れられないツラだ。

「……っつ」じわじわと口の中に広がる鉄の匂い。手の甲で口元を拭うと、わずかに血が付いた。

「あんた……」

 何か言い返したかったが、あまりにも突然の出来事に、上手く言葉が出て来ない。

 なぜこの男にいきなり殴られなければならないのか。春風には心当たりがあった。

 プっと血の混じった唾を吐いて、津田を睨みつける。


「あんた、俺が誰だかわかってこんな事してるんだろうな」

 いやでも鮮明に浮かび上がるあの日の映像。

 三年前。ガラス張りのバスルームで……、春風はこの男のケツの穴まで見たのだ。花嫁であった恵梨香の後ろに仁王立ちになり、腰を振っている交尾の最中を目の当たりにした。しかも、春風と恵梨香の新婚初夜。50万円のスイートルームでだ!

 ボコボコに殴ってやりたいのは、春風の方である。


「貴様ぁ、瞳が俺の妻だとわかっていてやっていたのか。あんな高い買い物させてやがって。たぶらかして貢がせてたんだろ! このクズ野郎が」

 津田は興奮冷めやらぬ様子で、尚も春風の胸倉を掴む。


「ああ! 知ってたよ。あんたの奥さん、最高だったよ。あんたなんかにはもったいないぐらい、いい女だったよ」


「貴様、このやろーーーーー!!!」

 ガキっと再び拳が春風の顎にクリーンヒットした。

「イッてー」

 口元を拭い、態勢を整える。次は、春風の番だ。ぎゅっと拳を握り大きく体を後方に引いた。

 握った拳に全体重を乗せ、思いっきり津田の頬にぶち込んだ。激しい衝撃と共にグシャっと音がして、大きく左側によろけた津田の胸倉を掴む。


「今のは俺の分だ」

 そして、再び拳を振り下ろした。

 ガキっ!!

 商売道具の右手が粉砕するかと思うほどの衝撃と共に「うっ」と声を上げ津田はアスファルトに沈んだ。


「まだまだ足りねーよ。瞳さんの痛みはこんなもんじゃねーんだよ」

 ひざまずく津田の胸倉を荒々しく引き上げて、壁に押し付ける。掴んでいる手で拳を握り、グリグリと喉元に押し当てた。

「お前にわかるか? 大切に手入れして、伸ばしてきた髪を、ばっさり切る女の気持ちが。髪をむしる事しかできなかった彼女の痛みが。瞳さんは一度だってあんたを責めたか? 責めたい気持ちを全部押し殺して、耐えてきたんだ。痛みを感じている時だけは、悲しみを忘れられる。そう言って笑うしかなかった彼女の気持ちがわかるか?」


「お前に何がわかるっていうんだ」

 津田は目元をうっすらと赤くした。


「あんたよりわかるよ。俺は唯一、彼女が自分をさらけ出す事ができる避難所のような物だった。張り詰めて、今にも壊れそうな心を癒すために頼る相手は、こんなクズみたいな一介の美容師しかいなかったんだよ!!! 高い買い物だと? 季節が変わるごとに一度だけ最高のおしゃれをして、子供を親に預けて、美容室にでかける。それが彼女の唯一の自分へのご褒美だったんだ。それぐらいも許してやれねぇのか。お前はどうだ? 息子の誕生日を覚えてるか? 俺は知ってるぞ。8月3日だ。結婚記念日は? 11月25日、恵梨香の誕生日と同じだよな。瞳さんの誕生日は? 3月3日だ。あんたの誕生日は? 1月10日だよな。この6年間。その日、てめぇは一体何やってたんだよ!!!」

 津田は、はぁはぁと息を切らして、泣きそうな顔で春風を見据えた。


「瞳さんが、俺のとこにやって来るのは決まってその当日や前後だった。なんでだかわかるか? わかるよな。てめぇが他の女と過ごす時間が耐えられないピークなんだよ!!」


「くっそ、このやろうーーーー!!」

 津田の反撃の拳は、春風の目の前で弱弱しく失速した。


「家族にとって大切な日を、彼女がどんな想いでやり過ごしてきたのか考えた事あんのかよ」


「うっ……、うううーーーっ」

 春風の胸倉を掴んだまま、津田は項垂れて涙を流す。


「いい事教えてやるよ、おっさん」

 津田の手の振りほどきながら、春風は肩を上下させて呼吸を整えた。


「瞳さんは、一度もあんたを裏切らなかった。俺と彼女は美容師と客。それ以上でも以下でもない」


 ブロック壁に両手を突き、津田は大きく頭を左右に振って否定する。


「あったんだ。あんたにはなかったかも知れないが、瞳にはあった。それ以上の感情が……」


 そして、津田はへたへたとアスファルトに座り込んだ。

 春風の方を向き、地べたに額を付けて、肩を震わせてこう言った。

「瞳に会ってやってくれないか。瞳は昨夜、意識を失くして病院に運ばれた」


「なに?」


「意識を失う前に、あんたの名前を呼んだ。瞳が会いたがってるのは俺じゃない。あんただ。あんたが来てくれたら、瞳は意識を取り戻すかも知れない。どうしても伝えたい事があるんだ。頼む。一緒に来てくれ」


 今日は、12月29日。美容室にとってはクライマックス。つまり最高の書き入れ時なのだ。春風の指名の予約は30人を超えていた。


 しかし、そんな事はどうでもいい。


 春風は弾かれたようにサロンの中へ入ると、控え室にいる田中の元へと急いだ。


「店長。ちょっと急用できたんで、有給もらいます。俺のお客さん、よろしくお願いします」


「へ? え? ちょ、ちょーーーーー」

 メロンパンを片手に田中が椅子ごとひっくり返ったが、春風はもう誰にも止められない。

 瞳の病院なら知っている。


 店先で、未だに座り込んでいる津田の横を素通りして、大通りでタクシーに手を挙げた。

 あっさり止まったタクシーに乗り込み、行先を告げる。

「日本赤十字がんセンター」


 津田の伝えたい事など知った事か。最後まで自分勝手な情けない男だな。

 春風は武者震いする手で拳を握って、感情を押さえつけた。

 左頬の熱が体全体を熱くする。


『さようなら。今までありがとう。これでもうおしまい。二度と会えないと思うけど死ぬまで絶対忘れない』と言った瞳の泣いてるような笑った顔が春風の胸を締め付けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る