第4話 会いたい人リスト

 ◆◆◆Side-春風Harukaze


 まるでホテルのように、スタイリッシュで頑丈そうな建物。

 自動的に開いた分厚いガラス戸に一歩足を踏み入れた春風は、そこで足止めを食らった。

 入口のすぐ横に、これ見よがしに置かれている三角の立て看板には、こう書かれてある。

『入院患者様の面会の際は受け付けにて手続きをお願い致します。ご家族以外の方の面会はお断りします』

 どうやらこの病院では家族以外の面会は許されていないらしい。

 立て看板の前でしばし佇み、後方を振り返る。

 津田の到着を待つか、それとも家族のふりを試みるか。


 だだっ広い待合には、座り切れないほどの人が溢れていて、スピーカーからはひっきりなしに順番を知らせるアナウンスが流れている。

 こんなにも癌患者がいるのかと驚かされる。ずらっと並ぶ発券機で受付の無人化には成功しているようだが、スタッフは誰もかれも忙しそうだ。もしかしたら、受け付けにさほど時間を割く事はできない可能性もある。家族のフリが通用するかもしれない。弟にでも成りすましてみるか。


 広いカウンタ―には、いくつもの窓口があり、一番手前に『面会受付』と書かれたプレートが見える。

 そこに座る事務服の女性に声をかけた。

「すいません。大貫瞳の病室を教えてほしいんですけど」

 身内っぽく、わざと敬称を付けなかった。


「大貫瞳さんですね」

 事務員は慣れた様子でキーボードを叩く。

「お名前を頂戴してもよろしいですか?」

「えっと……。や、山道春風」

 関係を訊かれたら、弟だと言おう。なりすますのは得意だ。何せ3年も既婚者を演じてきたのだから。

 事務員は、机の引き出しから書類のような物を取り出し、何やら確認している。

 しまった。もしかしたら身内のリストが既にあるのかもしれない。家族かどうか調べているに違いない。ゲームオーバーか?

「山道春風さまですね。奥のエレベーターで3階に上がっていただくと、すぐにナースステーションがあります。ナースステーションのすぐ前の303号室が大貫瞳さんの病室になります」

「へ?」

「ナースステーションで面会の旨を伝えていただけますか?」

「わかりました。ありがとうございます」

 なぜだかわからないが、すんなり通れた。


 事務員の指示したエレベーターで3階に上がると、すぐにナースステーションが見えた。

「すいません」

 と、声をかけると、若いナースがすぐに対応してくれた。

「はい。お伺いいたします」

「大貫瞳さんの面会なんですけど」

「はい。ではこちらにご署名をお願いします」

 使い古されたキャンパスノートに名前を書くと、すぐ前の部屋に向かって指先を向けた。

「あのー、家族、しか面会できないんですよね?」

「ええ、そうですが、終末期の患者さんだけは、意識がしっかりあるうちに、会いたい人リストを作ってもらってるんです。大貫さんは10日ほど前に診察の際にお預かりしていましたので。ご本人が意識がなくなってもご面会は可能ですよ」

 なるほど、と合点がいったが、終末期、会いたい人リスト、という言葉の響きで、瞳との永遠別れが現実味を帯びる。

 しかし、春風はずっと瞳と一緒にこの日に向かって歩んできたのだ。あの閉ざされた空間で、悲観する瞳の背をさすり、時には一緒に涙を流した。余命宣告を受けたという知らせを、一番最初に聞いたのは春風だった。

 覚悟なら、もう出来ている。


 303号室は個室になっているようで、入口横のプレートには瞳の名前だけが書かれていた。

 ノックしてみたが返事はない。

 そっと引き戸をスライドさせると、窓辺にシンプルなベッドがある。その上で、たくさんの線や管に繋がれ、酸素マスクを付けた瞳の姿があった。

 ピーピーピーという機械音と、一定のリズムで曇る酸素マスクが、確かに瞳は生きているのだと教えている。


 サイドに寄せている長い髪は人工的な艶を帯び、まるで精巧な人形のようだ。

 春風は派手なメイクを施した瞳の顔しか知らない。透き通るような素肌で穏やかに目を閉じる瞳は、少女のようにかわいらしい。これが終末期を迎えた人間の姿だろうか。今にもぱっちりと目を開けて、いつものように元気におしゃべりし出しそうに見えるが――。


 リュックを下ろして、ベッドの横にある丸椅子に腰かけた。

 下ろしたリュックの中から、シザーケースを取り、使い慣れたコームを取り出す。

 少しもつれているウィッグの毛先を優しくいてやり、ウィッグの境目が目立たないよう、前髪を整える。優しく、丁寧に。

 今どき流行らないよ、と何度言っても、重たく斜めに流す前髪が瞳は気に入っていて、決して変えようとはしなかった。

 希望通り、斜めに整えていると、音もなく扉が開き、津田が入って来た。


 津田は春風に深く会釈すると、窓側に周り、春風とは反対側のベッドの横に腰かけた。春風は構わず瞳の髪を梳く。


「何してる?」

 津田が弱弱しい声で春風に訊ねた。

「見ればわかるだろう。髪を整えてるんだよ」

「何のために、そんな事する?」

 春風は呆れた。

「どんな時でも女っていうのはきれいにしておきたいものなんだよ。それにウィッグの髪はもつれやすいから」

「ウィッグ?」

 津田は顔にクエスチョンマークを貼り付けた。

「は? まさか、瞳さんがウィッグ付けてるってのにも気づいてなかったってか? 呆れるな、本当」

 どこまでも腹立たしいおっさんだなと、春風は更に呆れた。


「よっし、出来た」


 津田は、瞳の点滴が刺さっていない方の手を取って、「瞳、瞳!」と声をかけ始めた。しかし、瞳は目を覚まさない。

 春風も、名前を呼んでやればよかったと後悔する。

 コームをケースに収め、リュックに仕舞い、瞳の顔を眺めていた。


 津田が握っている瞳の手は、握り返そうとしているのか、わずかに指先が動いた。

「瞳! 瞳!!」津田の呼び声が大きくなる。


 意識を取り戻すのかもしれない。緊迫感が走る。酸素マスクの曇りが濃くなり、瞼の裏で眼球が忙しく動いている。夢を見ているのだろうか。

 それとも、夢から醒める前なのだろうか。


 ゆっくりと、とても鈍い動きで、少しずつ目が開いていく。

「瞳! 瞳!! わかるか? 俺だ、わかるか?」

 意識を取り戻した!!


 津田は焦りながらナースコールを押した。

 慌ただしく、入って来たナースと医者に「意識が戻りました」と叫んだ。

 医者は瞳の口を覆う酸素マスクを外した。


「大貫さん、わかりますか? お名前言えますか?」

 瞳は虚ろな目でうなづいた。

「いしざわ ひとみ」

 途切れ途切れで名乗り、津田の顔を見て優しく微笑んだ。

「石沢は、旧姓だろう。大貫瞳。君は大貫瞳だろ!」

 津田の言葉に、瞳はゆっくりうなづき「おおぬき」と言った。

「まだ、記憶が安定しないみたいですが、徐々に戻ると思います。お薬がだいぶ効いてるはずですから。まだ目を覚ましたばかりですし、気長に――」

 医者をそう言って、瞳の胸元に聴診器を当てた。

 ナースは瞳の脈を取り機械の数値を調べている。


「今のところ、大丈夫そうですね。また何かあったらナースコールを押してください」

「ありがとうございます」

 津田が深々と頭を下げると、医者やナースは病室を出て行った。


 瞳は不安定に震える手を津田に伸ばした。その手を津田が掴む。

「ああ、あいたかった。はるかぜ」

 弱弱しい声で、瞳はそう言った。


 春風は絶句した。津田に向かって、瞳が春風と言ったからではない。

 覚悟していたとはいえ、こんなにも混乱してしまっている瞳の姿が、ショックだったのだ。


 津田は辛そうに顔を歪めて、涙を流す。

 こんなに残酷な事があるだろうか。愛する妻が自分の顔を見ながら、他の男の名前を呼んだのだ。

 それでも津田は、瞳の手を握り、こう言った。

「愛してるよ、瞳」

 瞳はゆっくりと頭を動かして、呆然と突っ立っている春風の顔を見た。


「どなた?」

「あ、あー。えっと……」

 不覚にも涙が溢れそうになり、言葉に詰まった。

「あの、いつも美容室で、大貫さんの髪を担当させていただいている山道です。ウィッグのメンテナンスにお邪魔しました。もう済みましたので、帰りますね」

 春風は震える声で、穏やかにそう告げて、床に置いたリュックを持ち上げた。

 心臓をぎゅっと鷲掴みされたような痛みを感じて、顔が引きつっているのが自分でもわかる。

 瞳は黒目を忙しそうに動かしながら、ウィッグの毛先を指で梳いた。


「では」

 津田と瞳に向かって頭を下げて、二人に背を向けた。

 瞳が自分を認識しないなんて。病気とはわかっていても、やけに悲しく苦しかった。泣くなんて変だ。ゆるんだ涙腺から不意に溢れる涙をこぼさないよう、上を向いてドアをスライドさせた、その時だ。


「春風!」


 瞳の我を取り戻したかのような声に、弾かれたように振り向いた。

 上体を自力で持ち上げて、切なそうな顔を見せる。


「瞳!」


 いつも呼んでいた呼び方で名を呼び、ベッドにかけよった。

 一段とほっそりした体を支えるように、背中に手を添えると、津田の手をするりと離して、その手を春風の胸元に置いた。

「春風」

「思い出した?」

 そういって笑って見せると、瞳は涙を一筋、頬に走らせた。


 津田は鼻をすすり上げながら、病室を出て行く。


「目が覚めてよかった」

 春風は、何でもない顔を無理に作って、そう言った。


「私、夢を見ていたわ。あなたに抱きしめられる夢を。とっても幸せだった」


 春風は、弱弱しく震えている瞳の体を両手でそっと包み込み、優しく抱きしめた。

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