最終章

第1話 愛は愛のまま

 ◆◆◆Side―潔葉Kiyoha


 手頃な大きさの、白いホーロー鍋の中で、ゆらゆらと昆布が泳ぐ。

 気持ち良さそうでもあり、楽しそうでもある。


 大画面4Kテレビのスクリーンでは、紅白歌合戦。

 最新の歌とダンスを、なんていう名前なのかも知らないアーティストが披露したかと思ったら、平成を彩った懐かしい青春ソングが心躍らせる。


「これ、懐かしいね」

「俺、頭から歌える」

「私も」


 春風は、くたっと柔らかくなった昆布を取り出し、大盛りの鰹節を投入。見た目、ただのお湯だった液体は、見る間に琥珀色に色づいて、至福の匂いを立たせた。薄口しょうゆや塩で味を調整している。

 その横で、潔葉はどんぶりと箸を取り出す。

 食べる準備は万端だ。


 湯気を上げ、クライマックスを迎えた鍋に、既に下茹でされたそばが投入されて、春風に緊張感が漂う。硬さを確かめながら、箸で麺を揺らす。

 麺のゆで加減は、そばの出来栄えを大きく左右するのだ。


「行くぞ」

「はい!」

 いざ、出陣!

 春風は鍋の取っ手を持ち上げて、2つのどんぶりに麺をつぎわけた。

「ネギ!」

「はい!」

「かまぼこ!」

「はい!」

「ニシン!」


「はい?」


「そこそこ! その魚」

 春風が顎で示した先には、とろっと煮詰まったお醤油が絡んでいる青魚の切り身。

「これを蕎麦に入れるの?」

 てっきりつまみだと思っていた。

 春風は、頑固おやじみたいな顔でうなづいた。

「関西では、ニシンを入れるんだ?」


 そう言えば、春風は関西の出身だ。どうやら関西風の年越しそばらしい。


「ニシンを甘く炊いて、乗せるんだよ。関東は天ぷらだな」

「九州も、主に天ぷらだったな。福岡はごぼてんとかかき上げが人気」

「天ぷらがよかった?」

「ううん。初体験楽しみ」

「それ、なんかエロいな」

「バカ!!!」


 少し遅めの夕食に招待されたのは、夜10時を過ぎたころだった。

『メシ食ったか?』

 という、春風のラインを受け取ったのは、寒々とした部屋で唯一の娯楽であるスマホで動画を視聴していた時だった。


『まだ』


 引っ越しで調理器具も全て梱包してしまったため、潔葉の主食はコンビニ弁当一択だった。


『そば食うか?』

『食べるー』

 という流れで、潔葉は春風のマンションに来ている。


 缶ビールで乾杯をして、春風がそばを作るのを見ていた。ちょっとだけ手伝った。

 既に作成済みだった稲荷ずしと共にテーブルに運び、さっそくどんぶりに顔を近づけて、湯気で鼻腔とかさついた肌を潤した。かつお出汁に混ざった甘辛い匂い。

「幸せな匂いだ」

 そんな潔葉に春風は目を細めた。


 ずるずるっと先ずは、春風の拘りの出汁をすする潔葉。

「あ~~~~~ん、染みる」

 ほんのり甘い醤油の出汁が、わびしかった潔葉の五臓六腑に染みわたった。


 春風も「うん、うん」とうなづきながら、汁に浮かぶニシンにふわっと箸を入れた。


「店長、店辞めるんだって」

 数の子ってニシンの子供なんだってぐらいのノリで、春風がそう言った。

「へぇ? そうなんだ」

「独立するらしいよ。ヘアショーの準備で色々疲れたのかもしんないな。急に辞めるって言い出してさ」

「へぇ、何かあったのかしら?」

「配信の演出で、リアルなサロンワークの風景を編集して、背景に取り込もうって話になってさ。防犯カメラの映像を使う事になったの」

「ああ、そう言えば店内に2カ所あるね。受付の所と奥の方に」

「そうそう、その編集を店長、寝ずにやってたから、疲れたんだよ、きっと」

「ふぅん。いつ辞めるの?」

「ヘアショー終わってから、有給消化に入るって。俺も誘われたけどさ」

「新しい店に?」

「うん」

「行くの?」

「いやぁ、まさか。俺まで辞めちゃったら、店回らなくなっちゃうよ」

「そうだよね」


 その話を聞いて、潔葉はやはり春風と付き合うという選択肢はないな、と思う。

 奥菜は潔葉の幸せをぐちゃぐちゃにぶち壊した張本人なのだ。そんな人の元、第一線で働く春風とは、それこそロミオとジュリエットである。

 少なからず、春風は奥菜に尊敬の念を抱いているだろうと思うし、恩もあるはずだ。

 春風は独立志向ではない。田中が辞めた後、間違いなく店長に昇格する。奥菜とは切っても切れない縁となる。


 潔葉はもう28歳。

 年が明ければ29歳だ。

 若い時のように盲目的に恋に溺れるなど、バカげていると思う。よって、この恋は心の奥に封じ込める。その覚悟はもうとっくにできていた。


「いつ、九州に帰るの?」

 甘じょっぱい稲荷ずしを咀嚼しながら春風がそう訊いた。


「3日のフライトが取れた」

「そっか。後3日か」

「実家から配信、観るよ。楽しみにしてる」

「うん。ありがとう。ちゃんと連絡しろよ」

「うん」


 たぶん、しない。


 実家に戻れば、両親がお見合い写真を片手に、手ぐすねを引いて待っている。

 地元で最適な相手と、適当な出会いで、頃合いを見て結婚する。

 きっと、それが潔葉の人生なのだ。


「俺さ……」

 春風が缶ビールをもてあそびながら神妙な顔をする。


「なに?」

「この前、瞳さんに会ったんだ」

「そう」


「最後の別れをしてきた」

「え?? 最後の別れ?」


「うん。彼女、癌なんだよ。末期の」

「え? へぇーーーー」

 衝撃的な事をサラッと言われて、潔葉は戸惑った。しばし、目のやりどころにも困る。


「腫瘍が、記憶と痛みを司る部分に広がってるらしくて」

「うん」

「痛みも感じないし、辛い事や嫌な事も思い出せないんだって。いい事しか思い出せないらしい」


「瞳さんて何かわけありなの?」


「うん。津田拓海って知ってる?」


「知ってる。あの俳優さんだよね」

「そう、あの俳優」

 あの俳優。春風の結婚するはずだった相手。恵梨香の不倫相手だと、大々的に報道された人物だ。


「あの俳優の奥さんが、瞳さん」


「えええええーーーーー!!!!」


「うん、そうなの」

 潔葉の驚嘆を雑に処理して、春風は続ける。


「なんかさ、死ぬって事は不幸な事だって思ってたんだけど、瞳さんを見てたら、そうでもないんだなって思ってさ」


「う~ん?」


「理想的な死に方だと思わない? 痛みもなくて、嫌な事は全部忘れて、死に対する恐怖もないんだぜ。そんな風に最期を迎えられる人がいるなんて、俺、初めて知ったよ」


 キラキラと油の艶を湛えた、きつね色のお稲荷を手にして、春風はしみじみとそんな事を言った。

 きっと瞳さんの記憶の大半は、春風だったに違いない。

 潔葉の心の一部をむしばんでいた、得体の知れない嫉妬心のような物はスっと消えてなくなった。

 春風はこんな風にこれからも、色んな女性に愛と幸せを提供していくのだろう。

 だって美容師なのだから。


「瞳さんが亡くなった後、あの津田って俳優、どうするんだろうね。恵梨香さんと結婚するのかしら?」


「それはないな。津田さんとも話したんだけど、一生瞳さんの夫として償って生きていくって言ってたよ。息子がいるんだけど、いい父親になれるよう頑張るって。それ聞いて安心したな。瞳さんのこれまでの痛みが全部報われたような気がしたよ」


「春風はずっと瞳さんの苦しみを受け止めていたんだね」


「そうな大層なもんじゃないけどな」


 そう言って、春風の視線はテレビに向けられた。

「そろそろトリだな」

「この曲、好き」


 往年のアーティストが弾き語るラブソング。

 その1コーラス過ぎた辺りで、春風の頬には涙が一筋こぼれていた。

 心の奥に芽生えていた、瞳さんに対する感情や、想いの名前を、『愛』だと、春風は知っていたのだろう。


 幾重にもバリケードを張って、決して誰にも気付かれないように、もしかしたら瞳さん本人にも気付かれないように、過ごしてきたのかもしれない。誰も傷つけないように。誰も不幸にしてしまわないように。

 そんな思いを今、春風は人知れず葬ろうとしている。


 潔葉には、そんな風に思えてならなかった。


「初詣でも行きますか!」

 どんぶりに残った最後の一滴の汁を飲み干して、潔葉が立ち上がる。


「おう! 行くか」

 どんぶりの底に残った青ネギを箸でかきこんで、春風が立ち上がった。

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