第四章

第1話 『愛してる』を聞いてくれ!

 ◆◆◆Side-津田拓海


 暮れも差し迫り、街は活気づき、人々は新しい年への期待に胸を膨らませていた。

 御用納めを終えた津田はいつもの帰り道で花を買った。いつもは素通りしていた小さな花屋だ。オープンな店構え。店頭には大小さまざまな銀色のバケツに、色取り取りの花がディスプレイされていて、よくこの店の前で、瞳が足を止めていた事を思い出した。


 人のよさそうな店員が、シャッターを下ろす寸前だったにも関わらず、快く対応してくれた。

 赤やピンクのバラをブーケのように束ねて、ゴールドのリボンをかけてもらった。

 もちろん妻への愛を込めたプレゼントだ。


 因みに今日は、記念日や誕生日などではない。

 しかし、津田にとっては素敵な記念日になるはずだと、信じて疑わない。


 約束の一ヶ月も、残り3日となっていた。

 津田の気持ちはもう決まっている。

 瞳との離婚を撤回して、夫婦としての再生をする。瞳もきっとそれを望んでいるはずだ。

 恵梨香とはきっぱり別れよう。


 帳の降りた街を足早に通りすぎ、家路を急ぐ。


 この一ヶ月足らずの間、朝晩、毎日、瞳の手料理を食べて、ハグをし、息子、優斗の前で愛してると囁いて来た。

 そのたびに、瞳はまるで少女のような笑顔を湛えて、どんどんきれいになっていったのだ。



「ただいま」

 と玄関の扉を開ける。トタトタと小さな足音が聞こえて、優斗が出迎えた。

「パパ……」

 優斗は今朝と同じパジャマ姿。冬休みとはいえ、そんな無精を瞳が許すはずはない。

「あれ? 優斗。ママは?」

 優斗は瞳の寝室を指さした。

「寝てる。お腹すいた」

「え? 具合でも悪いのか」

 今朝はいつも通り、朝食を作り、いってきますのハグをした。

 愛してるはこれから言うつもりだったのだが――。


 津田は、玄関先に優斗を置いて、瞳の寝室の扉を開けた。


「瞳。具合でも悪いのか?」

 薄暗い部屋。セミダブルのベッドの上には瞳が青白い顔で横たわっている。

 ドサっと花束が床に落ちた。


「瞳! 大丈夫か?」

 慌てて駆け寄ると、瞳は僅かに頭を動かした。


「瞳! 瞳!!」

「あ……、来て、くれた、のね。ハルカゼ」


「はるかぜ?」


「ママ、病気なんだよ」

 開かれた扉からぼんやりとした明かりに照らされた優斗の姿が見えた。


 ぐったりと力の抜けた瞳の体を抱きおこし、額に頬を付けてみる。

 熱はなさそうだ。

 瞳は、うっすらと目を開けて、震える手で津田の頬をなでた。


「パパ。あそこ」

 優斗がドレッサーを指差す。薄いグレーのベロア調。大理石を模した台の上には、4種類の化粧瓶がきちんと並べられている。

 乱れなく、凛と佇む優雅な鏡台は、まるで瞳そのもののようだ。

「ん? ドレッサー?」

「もし、ママが目を覚ます事が出来なかったら、パパにこの場所を教えてって、ママがそう言ってた」

 優斗は鏡台を指した人さし指を口元に当て、俯き、不安の色を見せる。


 薬でも入ってるのだろうか。津田はゆっくりと瞳をベッドに戻して、鏡台の引き出しを開けてみた。


 薬らしき物は見当たらないが、白い封筒が目につく。何の変哲もない事務的な封筒。

 宛名には『大貫拓海さま』と、瞳の字で書かれている。


 糊付けされている封を破き、開けてみると、二種類の紙が入っていた。

 一枚は離婚届。瞳の欄には署名がしてあり、既にハンコが押されている。

 もう一枚は便せんに3枚ほどの手紙。


 津田は震える指で三つ折りにされてある便せんを広げた。


 拓海さんへ

 この手紙に辿り着いたという事は、最後までちゃんと約束を守ってくれたという事なのでしょう。先ずはその事にお礼をのべたいと思います。

 ありがとう。

 意識が定かなうちに、急いで筆を走らせます。


 あなたはもう自由です。どうぞ、愛する人のところへ行ってください。

 約束通り、離婚届を同封いたします。


 私はもう、意識を取り戻す事ができないかもしれません。詳細を以下に記します。


 あれは、四年前の事です。

 時々自分がどこにいるのかわからなくなってしまうような不安事が続き、脳神経外科を受診したところ、脳に数カ所、腫瘍が見つかりました。

 手術は難しい場所であり、放射線治療を続けていました。寛解はする物の、完治する事はなく、騙し騙し過ごしていました。

 そしてついに、10月。路上で意識を失い、倒れており病院へ運ばれました。

 その時に医者から告げられた命の期限。余命三ヶ月。

 腫瘍は記憶と痛覚をつかさどる部分に広がっており、幸いな事に痛みを感じる事はありません。それ故、これ以上の延命治療は望みませんでした。自然のまま、時が与える姿を受け入れ、朽ちて行くことを私は選びました。

 お医者様は眠ったように最後を迎えるだろうとおっしゃっていました。

 ただ、心残りは優斗の事。

 私に最期に残された使命は、あなたに父親としての愛情を思い出させる事でした。優斗はとても優しく、強く、たくましく、とってもいい子に育ちましたが、まだまだ親が必要です。

 どうか、優斗の父親だけは辞めないでもらいたいのです。


 会社はそのまま、あなたが代表で継続できるよう父にお願いしてあります。

 離婚の事はこちらの家族には伝えていません。

 あなたは何も心配する事なく、私の没後、これまでの生活を続ければいいのです。


 最後になりますが、私みたいな生意気で世間知らずな女と、人生を共にしてくださってありがとうございました。


 あなたは、夫としては大いに欠点のある人でしたが、俳優としても、父親としても、優れた才能を持った唯一無二の私の夫でした。


 あなたを選んだ責任を、私は取らなければいけませんでした。

 あなたは、私を選んだ責任を、どうか取ってほしいのです。


 チャペルで、神様の前で誓った事を覚えていますか?

 病める時も、健やかなるときも――。

 私は全力であなたの妻として生きました。

 そんな人生を、愛しく、誇らしく思います。

 幸せな事ばかりではありませんでしたが、決して不幸ではありませんでした。

 最後に、たくさん愛してくれてありがとう。

 

 もっとあなたの傍にいたかった。


 さようなら。


 大貫瞳


「瞳ーーーーー!!! 瞳!! 死ぬな! 生きてくれ。頼む」

 津田は狼狽える手でスマホを手繰り寄せ、119を押した。


「パパ……。ママ、死んじゃうの?」

 優斗の大きな目から涙が一粒こぼれ落ちた。

「大丈夫だ。絶対に死なせない」


 鏡台の引き出しには、貴重品をまとめたポーチが入っており、保険証や近くのがんセンターの診察券が出て来た。


 サイレンを轟かせながら到着した救急車内に運ばれ込まれる瞳。優斗の手を取り、一緒に救急車に乗り込んだ。診察券を救急隊員に見せると、速やかに発進した。


 救急車から下ろされたベッドに、医者やナースがあわただしく駆け寄り、「大貫さん、聞こえますか? わかりますか? お名前言えますか?」。緊迫した声が病院の緊急搬入口に響き渡る。

 瞳の反応はない。ただ、穏やかな表情で静かに目を閉じている。

「お願いします。妻を、妻を助けてください。一日でも、一分、一秒でもいい。一緒にいさせてください」


 津田は、医者にすがりながら泣き叫んだ。


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