第5話 最高の恋をした

 ◆◆◆Side―津田拓海


 約束の一ヶ月は、いよいよ終盤に差し掛かる。

 クリスマスイブを4日後に控えた朝だった。

 いつも通り、という表現も大げさではなくなっていた。

 まるでずっと前からそうしていたように、津田はごく自然に流れるように瞳を抱き寄せた。


「行って来るよ」

「行ってらっしゃい」

 最初の頃のようなぎこちなさは、もうない。

 しかし、この日の瞳はなんだか少し違っている。いつも通り靴ベラを握り、いつも通りの微笑みを湛えて直立しているのだが――。


「少しやせたか?」

 抱きしめたままそう訊ねると「気のせいじゃないかしら」と首を振ったせいで、頬と頬が触れあった。

 ほっそりとした首筋からは、ほのかな柑橘系の香り。

 その香りは、出会った頃の事を思い出させ、胸を狭くした。


 あれは11年前。

 津田は25歳、瞳は22歳。

 まだ津田拓海の名は世間を轟かせてはいなかった。俳優としてデビューして10年目を迎えようとしていたが、もらえる役と言えば端役ばかり。それでも有名監督の映画やドラマにもちらほら使ってもらえるようになっていて、追い風が吹いていた。


 あの日は、真夏。映画のロケのため、沖縄入りして3日目の昼中の事だった。ロケも無事終了し、オフモード。せっかくだからと、共演者やスタッフと沖縄の海を楽しんでいた。


 こんがりと日焼けした体を見せつける群衆に紛れて、瞳は真っ白い肌を小さな布で覆っただけの無防備な体で津田の前に躍り出た。

『私の方が先です』

 海の家に行列を作るカキ氷屋。鼻差で最後尾に滑り込んだ瞳は津田をキっと睨みつけた。

 白いビキニが印象的だった。これは女神か天使か。津田は一瞬で瞳に興味を寄せた。

『あー、どうぞどうぞ』

 津田は一歩後ずさり、その場を瞳に譲った。

 あの時の姿が今、鮮明に蘇る。

 強い潮の香りに混ざる、ほのかなシャンプーの香り。長いまっすぐな髪が、さらさらと潮風になびいていた。


「沖縄の海で、出会った時の事覚えてる?」

 津田の問いに、瞳はくすっと笑って右手を口元に当てた。


「あの時は失礼な事を言ってしまったわ」

「いいさ。あれがあったから僕たちは恋に落ちて、優斗が生まれた」


「そうね」


 あの時津田は、瞳に向かってこう声をかけたのだ。

『どこから来たの?』

『東京よ。あなたも地元の人にしては薄い顔だわ。関東の方かしら?』

 薄い顔と評され、思わず苦笑を漏らす。


『津田拓海って知ってる?』


『津田拓海? ああ! ええっと。知ってるわ。名前だけなら』

 その返答に、心の中で拳を引いたのもつかの間――。


『山牟田監督のひめゴトっていう映画に、間男役で出てたわ。どうしてあんな俳優使ったのかしら。何もかもが台無しだった。誰でもいい役なら、もっとセクシーな俳優にやらせるべきだったわ。表情は硬い。仕草はぎこちない。セリフは棒読みだし。最後のエンドロールで、その名前を知ったの。何もかもをめちゃくちゃにした俳優の名をね。顔はあまり覚えてないわ』


『そっか』


 津田は苦笑いをかみ殺してこう言った。


『それ、僕……』


 瞳は、え? と声を上げて二度見した。

 その時の、気まずそうで恥ずかしそうな顔は、生意気な物言いに相反して、なんともかわいかった。

『ごめんなさい。あっ、あー、そう言えば……』

 大きく開けた口を抑えて、津田の顔に人差し指を向けた。


 そしてその夜、沖縄のオーシャンビューホテルの最上階のラウンジで、映画の話に花を咲かせたのだ。

 大学の映画サークルで、旅行に来ていたという瞳は、自分がこけ下ろした、全くセクシーじゃない売れない俳優と、快く乾杯してくれた。


 そんな思い出をお互いの脳裏に蘇らせて、津田と瞳はおでこをこつんとぶつけあった。あの頃よりも随分頬がほっそりとなってしまったが、それは津田自身のせいだと思ったら胸が痛かった。

「いろいろと、苦労かけて悪かった」

 そういうと、瞳は伏し目がちに俯き、首を横に振った。

「その言葉が聞けて嬉しいわ」


「じゃあ、行ってきます」

 そう言って、自宅を後にした。



 夕刻、帰宅時間が迫ると、決まって恵梨香から電話がかかってくる。

 今夜は取引先との会食が入っている。すっかり疑心暗鬼になってしまっている恵梨香には、例え本当の事であっても信じてもらえない。

 マナーモードにして、着信は無視する事にした。

『もう愛してないの? 奥さんと寄りをもどすの?』

 そう詰め寄られ、ヒステリックに責め立てられる事に、疲れていたのだ。


 瞳は、これまでどんなに津田が自分勝手な行動を取ってきても、一度たりとも咎めたりはしなかった。

 衣服もベッドもいつも清潔に保たれて、朝になれば靴もピカピカに磨かれている。

 一人で子育てをしながら、家事も完璧にこなす。


 この一ヶ月間の約束は瞳の最初で最後のわがままなのだ。

 せめて真摯に、精一杯家族との時間を大切にしたい。


「社長。受付にお客様がお見えです。桃井様とおっしゃる女性の方ですが、アポイントメントは入っていないようです」

 内線を受けた秘書が、そう話しかけた。


 腕時計で時間を確認すると、出かけるまでにあと15分ほどある。


「お通ししますか?」

「いや、行くよ。ロビーで待たせておいて」

「かしこまりました」


 帰り支度を済ませて、一階に降りるとロビーのソファで脚を組んで、嵌め殺しのガラス窓から外を眺めている恵梨香が見えた。

 この会社は、瞳の父親が大株主であり、社員には瞳の身内もいる。

 津田はできるだけ目立たないように、「お世話になります。こちらへ」と他人行儀に恵梨香を社外に促した。

 もうすぐ離婚するとはいえ、家庭内のトラブルを会社に持ち込めるわけもない。


 会社のすぐ近くの喫茶店に入り一番奥。外からは目立たない場所に座った。

「どうしたの?」

 不機嫌そうな恵梨香に訊ねた。

「電話、どうせ出ないでしょう。こうするしかなかったのよ」

「困るよ」

「じゃあ、せめて電話に出てよ。それとも奥さんが――」

「やめてくれ。もう聞きたくないよ」

 内ポケットから財布を取り、テーブルに1000円置いた。

「コーヒーでも飲んで帰ってくれ。これから取引先と会食なんだ」

 恵梨香の顔を不穏な色が支配した。

 わなわなと唇を震わせて、その1000円札をわしづかみにすると、津田に投げつけた。


「バカにしないで。話したい事があったのよ」

「なに?」


「もういいわ」

 立ち上がって出て行こうとする腕をつかんだ。

「ごめん。悪かった。話し聞くから、座ってコーヒーを注文しよう」

 どうにかなだめて、店員を呼び、ホットコーヒーを二つ注文した。


「芸能界への復帰、できそうなの。ヘアモデルをしてる美容室の社長さんの伝手で事務所を紹介してもらったわ」


「そうか。それはよかった。おめでとう」


「年明け5日にライブ配信で、ヘアショーをやるのよ。その様子をメディアに取り上げさせるって。5日にはもう離婚成立してるわよね」


「ああ。そうだな」


「その日は必ず空けておいてほしいの。一緒にお祝いしたいわ」


「もちろん。わかったよ」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・


 ◆◆◆Side-大貫瞳


「ママー。お腹すいた」

 優斗の声で目を覚ました。少しだけ横になるつもりがソファの上で眠ってしまっていたようだ。

「ごめんごめん。帰ってたのね、おかえりも言わずに寝ちゃうなんて、悪いママね」

「具合悪い?」

 優斗が心配そうに顔を覗き込む。

 瞳は首を横に振り優斗を抱きしめた。


「大丈夫よ。冷蔵庫にプリンを作っておいたの。ホイップをトッピングしていちごを乗せるわ」

「ホイップはいらない、いちごは自分で洗って乗せるよ」

 明かりが点いたような笑顔で、優斗はキッチンに向かった。


 背の高い冷蔵庫のドアを開けて、背伸びをしている後ろ姿に自然と顔がほころぶ。


 ――私の人生は、最高だった。


 そう心の中でつぶやいた。

 恋をして結婚して、かわいい息子にめぐまれた。


 最後に最高の恋をした。

 彼の腕の中で、素敵な夢を見ていた。


 ――あなたが私の人生に美しい花を添えてくれた。


 春風――。


 あと、もう少し。


 ――神様、お願い。もう少し時間をください。

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