第2話 思い出に変わるまで

 ◆◆◆Side―春風


 次の日、春風は久しぶりに有給休暇という物を使った。結婚式後、ハネムーンのために10日ほど消化したが、年に6日与えられる有給休暇はまだまだ未消化のまま残っている。

 ハネムーンに関しては当然ドタキャン。10日間誰にも会わないように家にこもっていたわけなのだが――。

 ベネチア、フィレンツェ、ローマへの架空の旅をして、各地のお土産をアマゾンで買った。

 今となってはいい思い出である。


 熱はすっかり平熱。若干喉に違和感はあるものの、体はすっかり平常運転だったが、掠れた声で田中に電話をして、具合が悪いふりをした。

 ずる休みではない。有給休暇だ。

 そして、玄関を入ってすぐ右側に位置する八畳ほどの洋間に暖房を入れた。

 しばらくの間ずっと使っていなかった部屋だ。


 午前10時過ぎ。

 インターフォンが鳴り、カシャっと開錠する音が響く。続いて「おはよう!」と少し鼻声を長引かせた声が聞こえた。

 洋間のドアを開けると、ゆるいニットのワンピースを着た潔葉。殺風景な玄関でよろめきながらショートブーツを足から引っこ抜いている。


「おはよう。シャワーは?」

「浴びてきた。髪も洗った」

「そっか。朝メシ食ったか?」

「まだ」

 完全にあてにしている顔で平然とそう答える。

「豚汁と卵焼き作ってる」

 そう言うと、潔葉は瞳を輝かせた。

「春風! 素敵すぎ! ありがとう。後でいただく」


「そっか、じゃあ……、先に始めるか」


 春風は、洋間のドアを広げて、潔葉を招き入れる。

「ごめんね。仕事休ませちゃって」

「全然! いつもこき使われてんだ。たまにはこんな日もいいだろう。誰も文句言うやつはいないよ」

 潔葉は浅くうなづくと、モコモコとした温かそうなジャケットを脱ぎ、後ろで結んでいる髪をほどいた。

 頭をふると、柔らかく長い髪がふわっと広がり、シャンプーの匂いが鼻先をくすぐる。

 春風は上着を受け取り、ハンガーにかけカーテンレールにぶら下げた。


 壁には大きな全身鏡。スタンド式のクランプとワゴン、使用済みのマネキンを並べている棚だけが置いてある八畳ほどのフローリングの部屋。ここは春風が練習のために使っていた部屋である。

 マネキンが刺さったままのクランプを退けて、デスクチェアを置いた。


 ちょうど一年前に元夫に切ってもらって、そのまま伸ばし続けていたという潔葉の髪を、これから春風が切る。潔葉にとっては何かしらの儀式のようであり、春風にとっては潔葉を口説く絶好のチャンスである。


 期待に胸を膨らませたような顔で、椅子に座った潔葉の首元に、準備しておいたタオルを巻き、カットクロスを付けた。

「どれぐらい?」

 と希望の長さを聞く。


「どれぐらいでもいいや。春風に任せる」

「俺の好みにしちゃっていいの?」

「うん!」

 幸先のいい走り出しに密かにほくそえむ。


 お湯を入れておいた霧吹きで、背中を覆っている長い髪を丁寧に濡らす。

「それって、俺好みになりたいって事でいいよね?」


「いいわけないでしょう! ヘアスタイル決めるのがめんどくさいだけよ」


「またまた~。もう素直になっていいんだぞ。俺は既婚者じゃないわけだし」

「…………」


 鏡越しに潔葉の顔を覗き見ると、腕を組んで目を閉じている。

 ――え? 寝た?

 ちっと舌打ちしながら、濡れた前髪をわざと顔の前に垂らした。額から雫がたれて鼻先や目元を濡らす。

 潔葉はクスクスと笑い「ちょっと気持ち悪いんですけど。わざと?」と、片目を開ける。

「ああ。ごめんごめん」

 謝るふりをしながら、びちょびちょになった顔を、タオルで大げさにゴシゴシと拭ってやった。

「ちょっとー、荒すぎ!」と、ケタケタ笑う。


「じゃあ、切るよ。動かないで」

 肩のラインにコームを横向きに置いて、サクっと鋏を入れた。


 カチカチと小気味いい音を鳴らしながら、作業は進んで行く。

 潔葉はスマホでゲームに夢中になっている。

 時々、下を向く顔を正面に向かせながら、春風は自分好みに仕上げていく。


「ねぇ、春風」

「なに?」

「ツイッターってやってる?」

「いや、アカウントはあるけど、何も動かしてないね。呟いてもないし、最近はあんまりロムもしてない」

「そっか。退会ってどうやるか知ってる?」

「アカウント消せばいいだろう」

「そのやり方がわかんないのよ」

「ググれよ」

「ググったけどわかんないから聞いてんでしょうが!」

「ウェブ音痴かよ。全くー。俺がいないと何もできないんじゃん」


 さりげなく心の隙間への侵入を狙いながら、潔葉の目の前に手を差し出す。

「なに?」

「スマホ。アカ消ししてやるよ」

「いやいいよ。やり方だけ後で教えて」

「いや、貸してみなって。10秒で終わるから」

「いや、いい! 見るでしょう!」

 焦る姿に興味をそそられる。


「見られたらヤバいの?」

 潔葉は目を泳がせながらスマホをクロスの下に隠した。

「なんて言うか、裏アカだからさ」

 春風は諦めて手を引込めた。潔葉の裏の顔はあまり見たくない。エロい副業アカだったりしたら何かと気まずい。

「じゃあ、後で教えてやるよ」

 そう言って作業を再開する。


「ねぇ、春風」’

 ベースを切り終わり、ドライヤーをかけていると鏡越しにまっすぐと春風の顔を見つめる潔葉と目が合った。

「なに?」

「ここでなら聞いていいよね?」

「なにを?」


「瞳さんの事」

 リズムよく動いていた春風の手が一瞬止まった。


「何が聞きたいの?」

 そう返しながら作業を進める。毛先に動きを付けながら乾かしていく。


「単なるお客さんとスタイリストだった?」


「う~~~~~ん」

 きわどい質問に、思わず唸り声を上げてしまった。

 潔葉はおもむろに、春風の方に顔を向ける。

 その顔をクイっと元の位置に戻し、答える。


「単なるお客さんだよ」

 しかし、彼女にとって春風は、単なるスタイリストではなかった。


 三年ほど前だろうか。

 夫の不貞に苦しむ彼女は、春風にこんなお願いをしてきた。

『心だけここに置かせて』

 そう言って、春風の胸に頬を寄せたのだ。

 今思うと、あれは夫に対する精一杯の意趣返しだったように思う。

 或いは、壊れていく心をどうにか保つための拠り所。あるいは本当に彼女は春風に恋をしていたのかもしれない。


 春風は、そんな彼女を優しく包み込み、サロンの中だけは恋人のように振舞った。

 ただそれだけの事だ。瞳はそれ以上の関係を何も望まなかった。

『何もしなくていいの。好きでいさせて』

 いつしか、瞳と春風は、あの閉ざされた部屋の中で、恋人同士のように親し気に名前で呼び合うようになった。好きな事や好きな食べ物。休みの日に観た映画の話。過去の恋愛についてなどを話すうちに、お互いが特別な存在になっていったのだ。


 ただそれだけの事だったのだが、軽々しく他言する事は、瞳の気持ちを冒涜するような気がして、春風はそれ以上の事は何も言わなかった。

 夫に対する気持ちに完全に幕を引いた瞳の命をかけた復讐と再生が、今始まろうとしている。

 その計画を知っているのは、春風だけ。

 どうか、瞳の最後の願いが神様に届くよう、祈るばかりだ。


「よし! できた。どう?」

 デスクチェアをクルっと回し、全身鏡に背を向けさせて、手鏡を持たせた。

「おおー! さすがー! いい感じ。ありがとう」


 フェイスタオルで顔にかかった髪を丁寧に払い、クロスを外すと軽くした毛先が狙い通りに肩先で外向きにはねた。


「スタイリング難しそうだけど大丈夫かな?」

 鏡の前で、少し照れた顔をしながら左右を確認している。


「大丈夫だよ。俺がいるだろう!」

 渾身のアピールを潔葉はあっさり無視して「あーーー! すっきりした」と、両手を天井に突き上げて伸びをした。


 これは、脈なしなのか?


「潔葉」

「なに?」

 両手をゆっくり下げながら、春風の方を見る。


「まだ、元ダンナの事好きなのか?」

 潔葉は一瞬動きを止めたが、すぐにぷっと吹き出し「まさか~」と否定した。


「あ~、お腹すいた。ご飯食べよう!」

 そう言って、潔く上げた口角の横に、くっきりとえくぼを作った。

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