第三章

第1話 バレる

 ◆◆◆Side―春風


 スマホのアラームが鳴り響く朝9時。

 快適な温度に設定しているはずの部屋は、なんだかいつもよりも随分寒く感じて毛布にくるまった。

 体の芯は熱いのに、表面に感じる温度は冷たくて、ガタガタと震える。ついでに喉も痛い。


 ―――やっちまったな。

 と春風は自分を責めた。

 風邪を引いた潔葉の看病をしたのは昨日の事。ちゃっかりウィルスを体内に取り込み持ち帰って来たようだ。

 そういえば、潔葉はもう元気になっただろうか?

 アラーム音をたよりに、布団の中で遭難中のスマホを片手で捜索する。


 あったあった、と手に触れたスマホのスクリーンを見ると、アラームではなく田中からの着信だった。

 すぐに通話をタッチして耳に当てた。


「おはようございます」

 その声は自分でもわかるほどに鼻声で、掠れている。


『え? なに? 風邪?』

 田中の健康的な声がキーンと鼓膜に響く。

「そうみたいっす。今日休みます」


『ええええーーーー。わかった。そんな事より大変だよ~』


「どうしたんすか?」


『潔葉ちゃん、辞めちゃったよ』


「え? 何を?」


『何をって、店だよ。さっき、辞めますって言って出て行っちゃった』


「えー?」

 春風はガバっと上体を起こした。

 ズンと頭が疼く。

「イテテテ。何があったんすか?」


『わかんないけど、泣いてたみたいだったよ。電話しても出ないしさ。ちょっと話聞いてあげて』


「わかりました」

 ズキズキと疼くこめかみを抑えながら、春風は毛布を体に巻き付けた。

 出勤はしてたと言う事は、風邪は治ったという事だろう。

 履歴から潔葉のLINE通話を探しタップした。

 軽快な着信音を聞きながら、頭痛に耐え切れず横になる。

 着信を鳴らしつづけるも、やはり、潔葉は出ないつもりらしい。

 一旦切って、チャットを開いた。


『おはよー。お前のせいで風邪ひいた。仕事行けない。責任取ってくれ』


 情けない事にそれだけで力尽き、春風は目を閉じた。


 再び着信音で目が覚めたのはそれから30分ほどが経った頃だろうか。

 スクリーンには『美影潔葉』の文字。

 重い腕を持ち上げて、通話をつなげ、スピーカーをオンにする。

 ぐでーっとうつ伏せのまま顔だけスマホに向けた。

『大丈夫?』

 といつも通りの潔葉の声が聞こえる。


「大丈夫じゃないよ~。死にそう」

 ちょっと大げさにアピールしてみる。


『奥さんは?』


「いない」


『夫が病気って時に――』

 潔葉は怒り交じりにそう言って、その後の言葉を濁してため息を吐いた。

『現在地送って。マンションの暗証番号も!』

 春風は言われた通り、現在地を送り、マンションの暗証番号を打ち込んだ。

 そして力尽き、枕に顔をうずめた。


 部屋のインターフォンが鳴ったのは、それから30分ほど経った頃だった。

 聞こえてはいるが、頭が重くてすぐには起き上がる事ができない。潔葉なら暗証番号知ってるのだから、勝手に入ってくるだろう。


 しかし、この部屋に入れば、独身だと言う事がバレてしまう。さて、どうやって誤魔化そうかと考えるも、思考は追いつかない。


 カシャっとドアが開錠されて、静かに潔葉が入って来る気配を感じる。

「お邪魔しま~す」

 声をひそめているせいで、沈んでいるようにも聞こえるが、弾んでいるようにも聞こえる。

 ようやく体を起こし、リビングに繋がっている引き戸を開けた。

 潔葉はちょうど、リビングに侵入したところで、きょとんとした顔で突っ立っている。部屋中を見回し「大丈夫?」とぎこちなく聞いてきた。

 頭に響かないように、静かに首を横にふり大丈夫じゃない事をアピールする。

「寝てて。何か作るね。昨日もらった薬も持ってきたよ」

「ありがとう。寝室、ここだから。ここで寝てる」

 この家には、無駄に20畳超えのリビングに、3つの部屋が備え付けられてあるのだ。

 来るはずのない、将来のために。


 それ故、居場所を告げておく必要があった。


「わかった」

 潔葉はそう言って、首を伸ばし寝室を覗こうとするもんだから、慌てて引き戸を閉めた。

 この上なく殺風景な寝室を見られたら、独身だと言う事がバレてしまう。ダブルベッドに枕だって一つしかないのだ。


 ベッドに戻り、布団に潜り込んだ。


 キッチンで冷蔵庫を開ける音、茶碗や皿が重なり合う音、水を出す音がせわしなく響く。

 程なくして、ピピーピピーピピーと電子レンジ音が連続して温めOKを知らせ始めた。


「春風ー。ご飯できた」

 という声と共に、リビング方面から薄暗い部屋に光が差し込んだ。潔葉が寝室の扉を開けたのだ。

 ――ヤバイ!!

 慌てて体を起こしたが、時既に遅し。敗北のゴングと共に、盛大にベッドから転げ落ちてしまった。

「あいたたたた」

 痛い。いろんな意味で痛すぎる。


「ちょっと大丈夫?」

 という潔葉の声を背中で聞いていた。

 パーにした右手を向けて、大丈夫のサイン。

 ゆっくりと立ち上がり、何食わぬ顔でリビングに向かおうとする春風に、潔葉は言った。


「奥さんの痕跡がどこにもないんだけど?」

「え? そう? 茶碗とか箸とか赤いのと青いのがあるだろう。夫婦の証の――」

「うん。それはあった。けどそれだけよね? あんなにゴージャスな奥さんがいるお宅の玄関にしては殺風景だし、靴も春風の靴しかないじゃない。洗面所には歯ブラシ1本しかなかったし、洗濯ものも春風の物ばっかりだった」


「そんなとこまで見たのかよ」

 大げさに腰を抑えながら、前かがみで寝室を出た。


「奥さん、どこ行っちゃったの? 一緒に暮らしてないの?」

 頭痛をこらえて、春風は2、3度曖昧にうなづいた。


「いないの」


「へ? いつから?」


「最初から」


「はぁーー?」


 リビングに入ると、ダイニングテーブルには、カブの酢漬け、肉じゃが、小ぶりな煮込みハンバーグ、炊き込みご飯で作ったおにぎりがちゃっかり二人分並んでいる。

 全て、春風が作り置きしておいた物だ。


「ありがとう」

 と複雑な気持ちで礼をのべ、椅子に座った。


 その正面に、潔葉が座る。

「なんか変な感じだな」

 この部屋で誰かと向き合って食事をする。そんな日が来るなんて、春風は不覚にも泣いてしまいそうだった。

「何が?」

 不思議そうに潔葉が春風の顔を覗き込む。

「いや、なんでもない。なんて言うかその……ありがとう。あっためてくれて」

 そう言って、肉じゃがを口に入れた。


「うんまっ!」


「変なの。自分で作ったんでしょ」

「けど、誰かと食べるメシは最高だよ」


「そっか」

 潔葉は色々と察した様子で、煮込みハンバーグを箸で割り、口に入れる。

「美味しいーーー!! 春風、天才!」

 何かが吹っ切れたような顔でもぐもぐと咀嚼している。

 田中は心配していたが、大丈夫そうに見える。


「店長から電話もらったんだけど、辞めるんだって?」

 そう訊ねると、潔葉はすこし神妙な顔をして箸を皿の上に揃えた。


「うん。短い間でしたけど、お世話になりました」

 そう言って、テーブルに両手を突き、丁寧に頭を下げた。


「何があった?」


「う~ん。何もないよ。何もなかったの」


 そう言って食事を再開する。

「何もないわけないだろう?」

「なかったんだよ。そんなウマい話」

「え?」

「シュガームーンってさぁ、一応有名店じゃん。新卒しか採用しない。ちゃんと社会保険もあって、福利厚生ばっちりだし」

「ああ、まぁね」

「そんな店がさぁ、私みたいな途中でドロップアウトしたバツイチの使えない美容師が、簡単に入れるわけなんてなかったんだよね」

「そんな事ないだろう。社長がわざわざ声かけたぐらいなんだから。それに、みんな言ってたよ。気が利くし、頑張り屋さんだって。助かってるって。俺も仕事しやすかったし。ヘルプ上手いなって思ってたよ」


「そう。ありがとう」


「考え直せよ」


 潔葉はきっぱりと首を横に振った。


「もう決めたの。本当に短い間だったけどさ、春風にまた会えてよかったと思ってるよ。いろいろありがとう」


「なに? 今生の別れみたいに言うなよ」


 潔葉はえへへと笑っている。


「家はそのまま引っ越さないんだろう?」


「うん。暗証番号は変えるけど」

「そんな事したら、お前、絶対孤独死するからな」


「お互い様じゃん。なんで結婚してるなんて嘘ついてたのよ」


「かっこ悪いじゃん」

 と言いつつも、春風はこの現実を受け入れたくなかっただけだったのかも知れない、と思う。

 嘘を吐いている間は、幸せな既婚者でいられた。恋愛も結婚もこりごりだ、と潔葉は言っていたが、誰よりもそう思っていたのは春風だった。


「バカね。カッコ悪いのが春風じゃん」

 潔葉はそう言って、全てを笑い飛ばしてくれた。

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