第3話 離婚のためなら

 ◆◆◆Side―津田拓海


「ただいま」

 自宅の玄関ドアを開けると、待ち構えていたように妻の瞳が玄関に出迎えに来た。腕時計は短針が11を指している。

「おかえりなさい。早かったのね」

 こんな風に言葉を交わすのは何年ぶりだろうか? 津田拓海はそんな事を思いながら、ごたごたと飾り立てられている玄関で靴を脱ぐ。


「明日から約束の一ヶ月が始まるだろう。優斗の前で茶番をするには朝早く起きる必要があるからな」


 瞳が離婚の条件に出してきた約束の中に、恵梨香と会わないという項目はなかった。

 一ヶ月間、毎日日付が変わるまでには帰って来る事。毎日出勤前に瞳にハグをする事。息子優斗の前で瞳に愛してると言う事の3つだ。

 優斗は8歳の一人息子。登校前でなければ殆ど顔を合わせる時間がない。


「そうね。7時に起きるといいわ」

「本当に、ちゃんと離婚してくれるんだろうな」

「もちろんよ」

 もう寝ているであろう優斗に気遣い、自然と声を潜める。


 瞳は、津田が毎日約束を守れるとは思っていないのか、やけに強気に見える。

 もう20年以上俳優として生きてきたのだ。そんな茶番、津田には容易い事だ。

 カメラの前で、愛してもいない女にどれだけ『愛してる』と囁いてきたと思ってるんだ。

 この息苦しい暮らしから解放されるなら、キスシーンでもベッドシーンでも演じてやるさ。

 瞳の横をすり抜けて、艶を帯びた廊下を書斎に向かってスタスタと歩く。

「お風呂入れてあるわ」

 瞳の声を背中で聞きながら、書斎のドアに手をかけると、隣の部屋の扉が開いた。

 水色にドット柄のパジャマを着た優斗が扉の隙間からこちらを伺っている。

「優斗。まだ起きてたのか?」

 声をかけると部屋から出て来て「パパ、おかえり」と言った。

 屈託のない笑顔に思わずしゃがみ抱き上げた。

「お! 重たくなったな~」

 少し照れた顔で体を反らせた。

 優斗は人一倍体が小さく、身長はようやく100センチになった所だが、もう小学2年生だ。抱っこはさすがに子供扱いしすぎたかと、床に下ろした。

「パパ、一緒に寝よう」

 人差し指を口元に当てて、大きな目をくるくると輝かせる。

「いいよ。お風呂に入ってくるから、パパのベッドで寝てなさい」

「本当? わーい」

 優斗は自分の枕を抱いて、津田よりも先に書斎兼寝室にバタバタと駆け込んだ。セミダブルの整えられたベッドに飛び乗り、その上で飛び跳ねる

 その姿を背中に感じながら、クローゼットから着替えを取り出し、スーツを脱いだ。

「パパはお風呂に入ってるから、いい子に布団に入ってなさい」

「はーい」

 聞き分けよく、布団に潜り込むのを見届けて風呂場へと向かった。


 優斗にはまだ、両親の離婚の事は知らせていない。

 津田の唯一の心残りは、やはり優斗だった。親権など取れるはずもない。何よりも、恵梨香は子供が嫌いなのだ。引き取って一緒に育てるなんて言ったらきっと怒って逃げてしまうに違いない。

 月に一度の面会が関の山かな、と湯舟に浸かりながらため息を吐いた。



 次の日。

 体を覆っていた布団を、いきなり剥がされて朝を迎えた。

 うっかり寝過ごしてしまったようで「朝よ。起きて」と、両手を腰に当てた瞳が笑顔で仁王立ちしていた。長い髪を片側で一つに結び、顔にはナチュラルな化粧が施されている。

 久しぶりにまともに瞳の顔を見たような気がした。

 腕の中にはホカホカと、まだ夢の中にいる優斗。

 まだ鈍い上体をどうにか持ち上げて、優斗の背中を強めに揺すった。

 何時だかわからないが、すぐに起きなくてはいけない事だけはわかる。

「優斗、朝だ。起きろ」

 ぎゅっと閉じた目をこじ開けて、むっくりと起き上がる。津田もベッドから這い出し、優斗と一緒に洗面所へ向かった。


 トイレを済ませ、顔を洗ってリビングへ入ると、朝食の準備ができていた。

 コトコトとおとを立てるコーヒーメーカーからは芳醇な香りが立ち上り、瞳はキッチンの向こう側でジューサーを唸らせている。

 真っ白の四角いプレートには、半熟玉子とベーコン、ミニトマトやグリーンリーフがトッピングされたイングリッシュマフィン。

 濃厚な黄色いソースがとろりとかかっていて、皿の横には布ナプキンに乗せられたナイフとフォークが添えられている。


「フランス料理みたいだな」

 と言うと、優斗がきょとんとした顔を見せる。

「パパ、エッグベネディクトだよ。この黄色いのはオランデソース」

 そう言えば、もう何年も瞳の手料理を食べていなかった。

「あら、何突っ立ってるの? 早く座って」

 瞳の手には丸いトレー。グリーンのスムージーが2つと赤いスムージーが一つ乗っている。


「あ、ああ。そうだな」

 促されて、優斗の対面に座ると、優斗の隣に瞳が座った。

 テーブルの中央には、食べやすくカットされているフレッシュなフルーツがガラスボウルに盛りつけられていて、その彩に食欲をそそられる。


「美味しそうだな、優斗。朝からご馳走だな」

「いつもと同じだよ。昨日はクロワッサンととろふわオムレツだった」

 そう言いながら、優斗は器用にナイフとフォークを操作して、半熟たまごにナイフを入れ、マフィンにからめ、切り分ける。

 バランスよく、ベーコンや野菜をフォークに突き刺して、口に運んだ。


「マフィンの表面がカリカリで香ばしい。ソースとよく合うよ」

 と瞳に向かって料理を褒めた。

 我が息子ながら、誇らしい気持ちになる。

「冷めないうちに食べて」

「ありがとう。瞳、愛してるよ」

 さらりと第一関門を突破して、ナイフとフォークを握った。

「ありがとう。私も、愛してるわ」

 と瞳が答える。


 優斗は目を輝かせた。

「やっぱりうちのパパとママはラブラブだね。翔太のやつ嘘ばっかつきやがって」

「ん? 翔太っていうのは、同級生か?」

 優斗は首を横に振る。

「英会話教室のともだち。お前んちのパパは不倫してるから、お前とお前のママはもうすぐ捨てられちゃうんだとか言って、いつも嫌がらせしてくるんだ」

 言葉を失った津田は瞳の顔を見た。

 その視線に気づいた瞳は目を反らしながら優斗にこう言った。

「パパは有名人だから、みんな優斗やママの事が羨ましいのよ。そんな事気にしてたら強い子になれないわよ」

 そう言って、優斗の髪をなでている。


「うん。今度会ったら、パパとママはラブラブだって言ってやる」

 その様子を誇らしげに眺める瞳。


 ――こんな女だったかな。

 ふとそんな疑問が津田の脳裏をよぎる。


 もっと世間知らずで、感情的で、脆い……。確かそんな言葉がよく似合う女だったような気がするが。今の瞳からはそんな印象は微塵も感じ取れない。

 子供を産み育てた女は図太くなっていくと言うが、その通りなのだろう。


「ごちそうさま」

 優斗は、赤いスムージーまですっかり飲み切って、食器をシンクへ運んだ。



 元気よく学校へ向かった優斗を見届けて、津田も出勤の準備に取り掛かる。

 クリーニングが済んでいるスーツに着替え、玄関へ向かう。


 第二関門だ。


 玄関には瞳が靴ベラを持って立っている。その正面に津田も立つ。

 瞳は無表情のまま。津田は少し戸惑い、うつむいた。

「ハグ、だよな?」

「そうね」

 ビジネスバッグを足元に置き、瞳の両肩を掴んで抱き寄せた。

 間違ったパズルピースのように、ぎこちなく噛み合わない。

 背中に両腕を回し隙間を埋めるように抱きしめると、瞳が耳元でこう言った。

「約束守ってくれてありがとう」

「いいさ。なんだってするさ。離婚のためなら」

 そう返答して、体を離した。

 瞳は、何の陰りも見せず、クリアな笑顔を見せて小さくうなづいた。

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