第2話 素直になれなくて・・・

 ◆◆◆Side―春風


 朝礼が終わり、スタッフは三々五々開店準備に取り掛かる。

 社長は受け付けで予約表を一瞥し、今日も満員御礼! とご満悦顔で、水を張ったように艶を帯びる螺旋階段を上がって行く。しゃんと背筋を伸ばし、まるで天国へでも導かれるように、淡い光に向かってカツカツとヒール音を鳴らす。

 二階が社長の自宅になっているのだ。


 およそ60坪のフロアの真ん中。取り残された春風と潔葉。

 しばらく気まずく見つめ合い、言葉を探す。


「あのっ」


 春風が発した言葉はそれだけだ。


 潔葉はおもむろに両手を体の前で重ねると、受付嬢のように腰を45度に折ってお辞儀をした。

「山道ディレクター。ご結婚されたそうでおめでとうございました。噂には聞いてましたが、お祝いする機会がなく――」

 他人行儀な態度に戸惑う春風は、手をパーにして言葉を遮った。

「ああ、いいのいいの。気にしないで」


 スっと顔を上げ

「美しい奥様と、盛大な結婚式だったそうで」

「ああ、うんうん。まぁ、そうだね。そんな事もあったね」

 とげとげしい物言いに、慌ててそう被せた。

 潔葉は前髪から垂れるおくれ毛を耳にかけると、春風の顔をじっと見つめる。

 そして、こう言った。


「どうしましょう?」

「え?」


「指示ください」

「ああ、そうか。そうだな、えっと、受付で俺指名の予約表確認してくれる? そしてお客さんのカルテもらってきて」

「承知しました」

 潔葉は、くるっと春風に背を向け、受付に向かって迷いなく歩き出す。


 ――なんだあいつ。妬いてるのか。自分だって結婚したくせに。しかも俺より先に!!

 潔葉の冷ややかな態度に、春風はなんだか腹立たしく、寂しい気持ちになった。

 完璧主義で優秀な潔葉の事だ。テストなんて余裕でクリアだろう。その後、ずっと一緒に働くというのに、ああいう態度を取られると、なんだかやりづらい。

 昔はあんなんじゃなかった。

 清純で、優しくて、ちょっとおっちょこいな部分も、可愛かった。

 なんだか荒波にもまれて磨き上げられた、いぶし銀みたいにギラつきやがって。

 そんな風に思ってみても、心の奥底に、完全に埋もれていた潔葉への気持ちは熱を持って鮮やかに蘇り始めている。


 しかしこの気持ちは――。


 不貞って事になるのか。


 今、春風は完全に既婚という設定なのだ。元モデルの美人妻をめとった男。10人いたら10人がよだれを垂らしてうらやましがる勝ち組である。もう3年も幸せな結婚生活を演じ続けている。ちっぽけな男のプライドと言う勿れ。

 結婚式当日、いわゆる新婚初夜にして、嫁を他の男に寝取られたのだ。かっこ悪すぎる!! 絶対に口が裂けても誰にも言えないし、誰にも知られたくない。親にすら嘘を吐いているのだ。

 潔葉にだって、絶対に知られるわけにはいかない。


「本日のお客様、30人です。10時にご来店の山田様はカットとトリートメント。先にトリートメントしますか?」

 受付から戻った潔葉が春風の前に立ち、カルテに視線を置いたまま、まるで秘書のようにそう言った。


「さ、さんじゅうにん? 忙しいな。えっと、そうだな。シャンプーとトリートメントを先にしようか」


「承知しました。では、同時にご来店されるカットのみの飯塚様をカットしている間に、私が山田様のシャンプーとトリートメントをします。トリートメントの手順を――」

「あのさ、潔葉。俺ら、同期じゃん。もっとラフに話しない? なんかやりづらいよ」


「けど、ここでは上司と部下に当たります」


「いいのいいの、そういう堅い会社じゃないからさ。なんか調子狂っちゃうよ」


 潔葉は春風を、まるで汚らわしい物でも見るかのような目で蔑んだ後、背を向けた。


「仕事は仕事。ちゃんと割り切りたいの」

 そうつっぱねると、スタスタとシャンプー台の方に歩いて行った。


 ――かわいくないなー。

 と春風は目を細める。


 潔葉はシャンプー台に設置しているシャンプーの裏書、いわゆる成分表を見ている模様。

 スタッフは皆、自分の作業で忙しくしているが、一人だけ潔葉に気付き近づこうしている者がいる。


 入店3年目のスタイリスト。青木しゅんだ。

 爽やかで整った見た目の上、甘え上手。女はすぐに騙される。あいつこそが付き合っちゃいけない3B男そのものだ!


 潔葉はシャンプーの裏書を読みながら、カルテと見比べている。

 カルテに書かれている客の髪質情報と、シャンプーやトリートメントの成分を見比べて、どれが適切なのかを探っているようだ。


 そこへ――。


 瞬が潔葉の隣に並んだ。


「どうしました?」


 潔葉が答えようとしたその瞬間に、どうにか間に合った春風は、二人の間に入り込み、瞬にてのひらを見せる。


「大丈夫」


 瞬は手に持った長いコームをクルっと一回転させて、ふぅんと言いたげに白けた顔を見せ、背を向けた。


 春風はいつものシャンプーと、三浴式のトリートメントをワゴンの上に並べた。


「このシャンプーで洗って、1番を塗布。洗い流した後、2番を塗布。加温して流し。3番で仕上げ」


 潔葉はなるほどと言った表情で深く一回うなづくと、「2番の成分は何ですか?」と訊いて来た。


「え? 主にケラチン……かな」


「剛毛でくせ毛のお客様に、ハリコシを出すケラチンですか? コラーゲン系とかシルクで柔らかく仕上げた方がよくないですか?」


「いやいや、あのね。ナンバーワンのトリートメントは保湿効果もあって、柔らかく仕上がるんだよ。コラーゲンは仕上がりが重くなるの。だからこれでいいよ。仕上げでオイル使う」


 潔葉は鼻からため息をすーんと吐き出すと、不満そうに唇を尖らし、腕組みをした。


「私、これでも毛髪診断士の資格持ってるんです。ケミカルについても勉強しました」

「ケミカルの勉強ぐらい俺だってしてるよ」


 毛髪診断士は持ってないけど……。


「これまで、その組み合わせで上手く行ってたし、お客様も満足している。それでいいの!」


「わかりました。ただ……」


「ただ? なに?」


「トリートメント前のシャンプーは、ノンシリコンがいいいと思います」


「出た出た! ノンシリコン信者!! ノンシリコンが何だって言うんだ~? 俺の客なんだよ! 俺が決める! 余計な口出しすんな!」


 潔葉は小鼻を膨らませて、眉を歪めた。


「相変わらず人の意見を聞き入れない、頑固おやじ!」


「うるさいよ。お前こそいちいち突っかかりやがって、質の悪いクレーマーか!」


 潔葉はキっと春風を睨むと、ふんっと顔を斜め上に振って、スタスタとバックヤードに入って行った。


 背中で左右に揺れるウェーブヘアを見ながら、春風は思う。

 余計な口出しすんな、は言い過ぎた。

 心の中では『ごめん』と言っているのに態度や言葉が出てこない。


 もしもあの時、8年前に、ごめんの一言が言えていたら――。

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