第3話 甘くて苦い……
◆◆◆Side―潔葉
5年ぶりのサロンワーク。店内は、めまぐるしく状況が変わっていき、そのスピードについていけない潔葉。
お昼時はすっかり過ぎていて、時刻は15時。ようやく控室に入り、お昼休憩を取っていた。
深いため息と共に、会議用机に上半身をくたっと投げ出し、今朝コンビニで買っておいた卵サンドと、ジョージアをもてあそぶ。
空腹は通り過ぎ、食欲はすっかり奪われていた。
お昼を食べ損ねるなんて当たり前だったのに、体も勘もすっかりなまっている事を実感していた。
「失礼しま~す」
控室のドアが開き、別のスタッフが入って来た。
潔葉はあわてて体を起こし、「お疲れ様です。お先してます」と軽く会釈した。
「あ、どうぞどうぞ、ゆっくりしてください」
金髪を頭のてっぺんで、お団子に結っている女性スタッフは、潔葉より随分若い。服もメイクも派手に見えるが、性格は控えめのように思う。
「美影さん、でしたよね?」
彼女は、手作りのお弁当を机に置き、パイプ椅子に腰かけながら話しかけてきた。
「はい。美影です」
「私は、
お弁当の包みをほどきながら、首を傾けてほほ笑む。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる潔葉に
「敬語、やめてもらっていいですよ。私、一番下っ端なんで」
と、愛嬌たっぷりに笑った。
「山道ディレクター、人使い荒いから大変でしょう?」
「いえ、そんな事は……」
「あ、お知り合いだったんでしたっけ? 今言った事はこれで」
と姫香は人差し指を口元に当てる。
潔葉はうんうんとうなづき「もちろん」と、秘密を約束する。
「私、昨日まで山道ディレクターのアシスタントやってたんです」
プラスティックのお箸を卵焼きに突き刺し、こう続けた。
「アシ一人じゃ絶対回らないんで、大変な時は声かけてくださいね。ヘルプ入ります」
「あ、ありがとう」
潔葉もようやく卵サンドの外装を開けて、一切れ指先でつまんだ。
「あのー、なんて言うか、春風……、あっ、山道ディレクターはみんなに嫌われてるとか、そんな感じなのかな?」
姫香は咀嚼中だった卵焼きを慌てて飲み込み、お箸を持った手を横に振った。
「そんな事はないです。その逆です!! 人気者ですよ。仕事中は厳しいですけど、普段はよく飲みにつれて行ってくれたり、スタッフの相談に乗ってくれたり、優しいです。それに、ちょっとイケメンじゃないですか」
いたずらを企む子供みたいな笑顔を貼り付けたまま、ストップモーション。
「そ、そう? イケメンかな~?」
【優しい】は否定しないが、春風の優しさはどこかズレてるのだ。学生だった頃、潔葉が飼っていた猫が死んだ。悲しくて泣いている所を、変顔で笑わせようとするような男だ。
聞きたい言葉は『おっぱっぴー!』じゃなかった。
そういう所が整った顔立ちにバイアスをかけて、イケメンからは程遠いオーラを纏わせるのだろう。
ストップモーションが解除された姫香は、夢から醒めたみたいにこう言った。
「けどぉ、既婚者ですからね。それ以上の感情を持ってしまったら地獄です」
そして再びお弁当を食べ始めた。
嫌われていないのならよかった、と潔葉は思う。
それ以上の感情などない。ただ同期のよしみで気にかけただけ。それ以上でも以下でもない。
潔葉も卵サンドを頬張り、甘いコーヒーで流し込んだ。
そこへ――。
ガチャっと突然開いたドアから、血相を変えた春風が入って来た。
左手をタオルで覆っている。
「どうしたんですか?」
姫香が急いで春風に駆け寄った。
「……切った! 絆創膏あったっけ?」
カット中に指を切ってしまう事はよくある話だが、顔色からして、かなり深い傷のようだ。
「あります。待ってくださいね」
姫香は手洗い場のシンクの下から救急箱を取り出し、すぐに絆創膏を探し出した。
「貼ろうか?」
と立ち上がると、姫香はてのひらをこちらに向けて潔葉を制止する。
「大丈夫です」
白いタオルを慎重に外し、「うわ、血がいっぱい出てますね。大丈夫ですか?」と眉を寄せる。
「ああ、大丈夫。だけど血止まるかな?」
まだこれから10人ほど客が控えている。
潔葉は立ち上がって、机の上に置いてあるボックスからティッシュを数枚抜き取った。
「先ず、止血しなきゃ」
傷口は中指のちょうど間接の部分。切ったと言うより、皮膚が抉れたような状態になっている。
次から次に血が噴き出し、タオルを赤く染める。
その部分にティッシュをあてがい、ぎゅっと押さえつけた。
「いってー。もっと優しくできないのかよ」
と、怒鳴りながら手を引っ込めようとする春風。
「できません。圧迫しないと血は止まりませんから」
「鬼ーーー!!」
引っ込めようとする手をグイと引き戻し、中指をぎゅっと握った。
「いってーーーーーー!!!!」
「5分ぐらいかかる。お客さんは大丈夫ですか?」
「うん、店長に変わってもらった」
「店長のお客さまは大丈夫なんですか?」
「店長はフリーだから」
「フリー? そう、こういう時にために指名取らないの。だから俺が死ぬほど忙しいの」
二人の様子を、にまにまと眺める姫香と目が合った。
「仲いいんですね」
そう言って、春風の中指をぎゅっと握っている手に視線を落とす。
潔葉は、慌てて手を離した。
「ああ、ちょっとちょっと、血が出るじゃん」
「自分で抑えててください」
冷たく言い放ち、春風に背を向けて、食事を再開する。
「お二人ってもしかして、付き合ってたとか?」
人差し指を天井に向けて、当たりでしょ! と言わんばかりの笑顔で、そのまま停止した。
「まさか~」「やっぱりわかる?」
二人の声が重なる。
「はぁ? 付き合ってないでしょう」と潔葉。
「付き合ってただろう!」と春風。
何をどう勘違いしたらそうなるのだろうか?
「入学したての時、一緒に花見に行っただろう! お弁当作ってくれたじゃん」
「一緒にって……。他にもたくさん友達いましたよね。お弁当は作り過ぎたから食べてもらっただけよ。余ったらもったいないし」
「シャンプーの練習の時、いつも俺にモデルお願いしてただろう!」
「短くて洗いやすかったからよ」
「ハロウィンのメイク、俺に頼んだのはなんでだよ!」
「暇そうだったからに決まってるでしょう!」
むふふ、と姫香が笑う。
「やっぱり仲良しなんですね」
「ちっ、違……」
潔葉の否定の言葉は宙に舞い、姫香は絆創膏の外装を剥がした。
「そろそろ血止まりました?」
「ああ、うん。止まったっぽい」
そう言って、姫香に血だらけの手を差し出す姿は、まるで母親に甘える子供みたいだ。
「一応2枚重ねで貼っておきますね」
「うん、ありがとう、姫ちゃん。いてててっ。お願いだから優しくしてくれる?」
「はいはい」
姫香は慣れた手つきで絆創膏を巻いた。
その光景があの日と重なる。
学生の頃、練習中に指を切った春風が、いつも「貼って」と手を差し出していたのは潔葉だった。
春風と姫香。二人の距離が近すぎて、思わず目を反らしていた。
――何が『付き合ってた』よ!! 好きだなんて一度も言わなかったくせに……。
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