第4話 妻でも彼女でもない女の特権
◆◆◆Side―潔葉
戦場のような時間はやっと終わり、スタッフは皆、2号店で行われる縮毛矯正の講習会に行ってしまった。
ここ本店に残ったのは、まだ正式なスタッフではない潔葉と、先生役を押し付けられた春風のみ。
しかし、春風の姿は見当たらない。閉店後、すぐにどこかへ消えてしまった。
疲労を通り越した体はもはや条件反射で動いているような物である。
潔葉は今朝となんら変わらない足取りと身のこなしで、レッスンの準備に取り掛かる。今にも根を上げそうな気持ちを押し込むように、ショートブーツの中でぎゅっと足を踏ん張った。
鋏を握るのも久しぶりだ。リングに指を入れて開閉してみる。
鏡をのぞくと、ぎこちない姿が映っていた。
カランコロンとドアベルが鳴り、店内に冷たい風が侵入した。
春風が戻ったのだ、と思った。
「あれ? レッスンですか?」
鼻にかかったテノールボイス。慌ててそちらに振り向くと青木瞬の姿があった。
バックヤードで自己紹介しあっただけだが、白に近い銀髪の割に爽やかな印象だったため、名前が記憶に残っていた。
ジャニーズなんとかというグループの中で踊っていても何ら不思議はないかわいい顔をしている。
「あれ? 山道ディレクターは?」
そう言って店内をぐるっと見回す。
「それが、営業後、どこか出かけちゃってて」
瞬は何かを思い出したように「あー!」と言ってテンポよく人差し指をこちらに向けた。
「明日、奥さんの誕生日だから、プレゼント買いに言ったんだ!」
「ああ、なるほど」
それは仕方がない。奥さん、大事にする人でよかった。潔葉は素直にそう思えた。
瞬は、潔葉がレッスンの準備をしていたセット椅子の隣に座った。
「山道ディレクター、愛妻家ですからね~」
潔葉は、スタッフが皆一様に口を揃えて、春風を愛妻家と評する事に、不自然さを感じていた。
ステレオタイプな愛妻家とでもいうのだろうか。それがなんとも春風らしくないと思えて仕方ない。
もしかして仮面夫婦?
もっともそれは、潔葉の第六感によるものでしかないのだが……。
「奥さんって、あの人よね? あの一時期有名になった……」
同期から聞いていた春風の妻の姿を思い描いていた。
潔葉が知っている春風の奥さんとは――。
「そうなんですけど――」
瞬はこちらに向かってクルっと椅子を回転させ、気まずそうな顔をして人差し指を口の前で立てた。
「その話題は、この店では禁句です」
「あ、そっか。そうよね」
下世話なゴシップなど、持ち出して春風の幸せに水をさしてはいけない。潔葉は慌てて話題を変えた。
「青木さんは? 独身?」
「あ~、瞬でいいですよ。独身です。まだ23ですからね。まだまだ結婚なんてしませんよ~」
ふにゃっと笑って、真っすぐに潔葉を見つめる。
「それより、顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
「ん? うん。ちょっと疲れちゃっただけ」
瞬はさっと立ち上がって、潔葉の両肩を掴むと、椅子に座らせた。
不意に縮まった距離感と、肩に残る手の温もりが心臓をざわつかせる。
「ちょっと待っててください」
そう言って、薬剤や道具が仕舞ってあるバックヤードに入って行くと、すぐに出て来た。
手にはオレンジ色の大きな桶のような物。
それをシャンプー台の横のワゴンに乗せると、お湯を入れ始めた。
「それ何?」
「なんでしょう? 当ててみてください」
そう言われても、潔葉の位置からは桶の側面しか見えず、大きな洗面器にしか見えないが――。
「あ! わかった!! フットバス!!」
「正解です」
瞬はふにっと口角を上げると、シャワーを止めて、フットバスを両手で慎重に持ち上げ、こちらに運んで来る。
潔葉が座るセット椅子の横にそれを置き、固形の入浴剤を一つ入れた。ぶくぶくと気泡を発しながら、柑橘系の香りが鼻腔から侵入し体の芯を癒す。
「いい匂い」
その香りだけで、体が少し軽くなった気がした。
「ありがとう」
「ここ、床がタイルだからけっこう足に負担がかかるんですよ。冷えますしね」
瞬は潔葉の足元にひざまずいた。
――え?
そして、合皮のショートブーツに手をかける。
「え? ちょ、ちょっと……」
何のためらいもなく、床に膝をついている方の足に、潔葉の足をのせ、スポっとブーツを脱がせた。すっと足は軽くなったが、恥ずかしさで頬が熱くなる。
瞬は流れるような動作で、今度は黒い靴下をゆっくりと足先に向かって下ろしていく。
朝10時から22時まで立ち仕事で蒸れた足は匂いが気になって、思わず引っ込めたくなる。
どうか、フットバスから立ち上る柑橘系の香りが、足の匂いを誤魔化していてくれますように、と強く願う。
元夫も付き合ってた時は優しい人だったが、ここまでしてくれた事はない。彼女でも妻でもない女性の特権なのかもしれない、と潔葉は思った。
瞬はフットバスを潔葉の足元に移動して、「どうぞ」と言った。フットバスの中でお湯がゆらゆらと揺れている。
つま先からそっとお湯に入れた。
少し熱めのお湯が、冷えた足をじんわりとあたためる。炭酸の気泡が足にまとわりついて、なんとも気持ちがいい。
泡を吹きながら溶けていくバスソルトとともに、このまま溶けていきたい、と思った。
「あれ? そう言えば、講習会は?」
ふと気になり瞬を見上げた。
「さぼりました」と即答する。
思わず呆気にとられたが、それはすぐに笑いに変わった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫です。うちの会社、そういうのゆるいから。行きたい人は行く。帰りたい人は帰るって感じで、みんな自由にやってますよ」
「それで、今のレベルの技術が提供出来てるって事は、みんな優秀なのね」
「いや、仕事は厳しく評価されますよ。全部数字ですけど。売上げとかリピート率とか。そこさえ頑張ればいいんですよ。そのために技術を磨こうと思えば練習するし、練習しても伸びないやつは辞めていきます」
「まぁ、そうだよね」
美容業界とは確かにそういう所だった。
「ところで、何か用事だったの? 山道ディレクターに話があったとか?」
「いや、通りかかったら電気点いてたんで覗いただけです」
そう言ってしゃがみ込み、フットバスのお湯を手ですくってはふくらはぎにかけてくれている。
「きれいな爪ですね」
そう言われて、くすぐったくて何の装飾もない足の指をきゅっと引っ込めた。
「離婚の原因とか聞いてもいいですか?」
その問いに、一瞬、頭の中が渋滞を起こす。
「う~ん。全然大丈夫なんだけど。なんて言ったらいいんだろう? 色々ありすぎてこれが原因って物も見つからないんだけど……」
「そんなもんっすよね」
瞬は察したのか、そんな便利な言葉で空気を変えてくれた。さすがZ世代である。
元夫は、優しい人だった。それ故、苦しかった――。
バスソルトがすっかり溶けてしまって、色付きのお湯でしかなくなったフットバスの中身を見届けると、瞬は再びバックヤードの方へと消えて行った。
戻って来た瞬の手にはふわっと柔らかそうな大判のタオル。
そして、再び足元にひざまずいた。
「あ、大丈夫よ。自分でやるから。ありがとう、気持ちよかった」
慌てて、タオルを取ろうとしたが、その手を押し返される。
「いいですって! 大丈夫です。僕、ネイルの資格も持ってるんですよ。だからこういうの慣れてますから」
そう言って、指の間まで丁寧に拭きあげている。言われてみれば確かに慣れた様子だ。
「へぇ、今は男性のネイリストも珍しくないよね。いいじゃん! 頑張って!」
「今度モデルになってくださいよ。サロンではヘアの方が忙しくて、なかなかネイルの腕、上がらなくて」
「私でよければ、喜んで」
瞬は、きれいに拭きあげた足の下に、タオルを置いてくれた
「はい。終わりました!」
「ありがとう、なんだか頑張れそうな気がしてきた」
そういいながら、靴下を履いてブーツに足を入れた。中途半端な状態で立ち上がってしまったせいで、グラっと足元がバランスを崩す。
「おっと、危ない」
間一髪で瞬に抱きとめられ難を逃れたと同時に、カランコロンと音がして、ドアが開いた。
瞬の肩越しに、大きなレジ袋を持って入って来た春風と目が合った。
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