第5話 新婚初夜に花嫁を寝取られました
◆◆◆Side―春風
「ただいまー」
家に入るまでが遠足……じゃなくて、勝ち組既婚者だ。
玄関ドアの鍵をガチャっと回し、真っ暗な部屋に電気を点ける。
すっかり見慣れた、情け容赦ない現実が目の前に広がる。
将来、子供が出来ても引っ越さなくてもいいように――。と無理して購入した都内の分譲マンション。3LDK……。
一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫をあければ、大量の缶ビール。
それに、昨夜、作り置きしておいたかぼちゃの煮つけと、鶏の南蛮漬け、煮卵にパプリカのピクルス。そして今朝の残り物、大根となめこの味噌汁が入っている。
もちろん作ったのは春風である。
それらをダイニングテーブルに並べ、ぐずんと鼻をすすりながら缶ビールを取り出した。
プルタブを上げ、ゴクゴクゴクゴクと勢いよく5回ほど喉を鳴らした。
ぷはーっと息継ぎをして、げぼーーーっとゲップと共にため息を吐いた。
展開、早すぎるだろぉぉぉぉーーーー!!!
と、今にも口から飛び出しそうな雄たけびを、テーブルの上に無造作に置かれているタオルでぎゅっと塞いだ。
合法的な恋愛だ。
潔葉と青木瞬。
あの二人が付き合ったとしても、何の問題もないのだ。
「くっそー」
気まずいシーンに出くわしてしまい、情けない事に潔葉と一緒に食べようと思っていた肉まんを置いて、踵を返してしまった。
『差し入れ買って来た。二人で食べろ』
そんなセリフを置いて……。
今頃、二人で肉まんを食べながらいちゃついているのだろうか。
「くっそーーーーー」
口に当てたタオルに憤怒を吐き出す。
その時だ。ポケットのスマホが震えた。
スクリーンを確認すると、店長田中からのラインだった。
『これ、面白いぞ』というメッセージの下に、例の投稿サイト。ウェブ小説らしきリンクが貼ってある。
『NTRから始まる、新しい恋の始め方』
――誰が見るか! こんなもん!!
怒りに任せ、スマホをソファの上に投げつけると、再び振動してメッセージ受信を知らせた。
ちっと舌打ちしながら拾い上げ、再びスクリーンに目をやると、また田中からだ。
『大事な事忘れてた! 月末だからスタッフの評価よろしく』
シュガームーンでは、ディレクターと店長の評価でスタッフのボーナスが決まる。学校でいう所の内申書みたいなものだ。毎月評価シートを書いて、社長に提出するのも春風の仕事だ。
春風は、手に持ったビールを一気に飲み干し、グシャッと缶を握りつぶしてテーブルに放った。
そして、片方だけの口角を上げてほくそ笑む。
通勤用のリュックから評価シートを出し、青木瞬を探した。
「えっと、ボールペンボールペン」
四つん這いでテレビボードの引き出しを開けて、ボールペンを取り出す。
強い筆圧で『勤務態度』の項目、5段階評価【1】にチェックを入れ、再びほくそ笑んだ。
これであいつの冬の賞与は5%下がる。「ニヒヒ」と死神も真っ青な笑いを浮かべた。
――愉しいーーー!!!
いや、むなしい。
評価シートとボールペンをテーブルに投げ出し、L字型のソファにドスっとあお向けに体を沈めた。革の感触がひんやりと背中を覆う。
スマホを拾い上げると、明るくなったスクリーンにはNTRの文字。
嫌な記憶という物は、どうしてこうも鮮明に残ってしまうのだろうか?
元妻。正確には入籍していないので、
桃井恵梨香は知る人ぞ知る、グラビアモデルだった。
服を着て歩けば、グラモの桃井恵梨香だと気付く日本国民は少なかっただろう。そんな彼女を一躍有名にしたのは、人気俳優だった津田拓海である。
皮肉な事に、津田との密会をスクープされたのがきっかけで、恵梨香は日本全国にその名をとどろかせた。
【イケメン俳優津田拓海、グラビアモデル桃井恵梨香と密会・不倫!!】
そのセンセーショナルな見出しに国民は、驚き、憤り、落胆した。
ネット上には、二人に対する心無い罵詈雑言が飛び交い、人々はまるで自分の夫や妻が寝取られたかの如く怒り、狂い、二人を責め立てた。
ほどなくして既婚者だった津田は芸能界を干され、独身だった恵梨香は引退を余儀なくされた。
次々にターゲットを変えるワイドショーのお陰で、その出来事は1年ほどで風化し忘れ去られた。
春風が恵梨香に出会ったのは、そんな頃だった。
誰もが桃井恵梨香というグラモがいた事さえ忘れている。そんな頃――。
足しげくサロンに通い、春風を指名してくれる青年がいた。
名前は
来店するのはいつも午後の明るい時間で、なんとなく夜の匂いがしていた。
「俺、六本木でバーテンやってるんですけど、よかったら遊びにきてください」
ある日、そう言って名刺をくれたのだ。
そういう所は律儀な春風。その日の夜に早速、六本木へ一人で繰り出した。
肺までも凍りそうな、雪がちらつく夜だった。街はイルミネーションに彩られて恋人たちは身を寄せ合う。遊びたい盛りの24歳だった春風は、自然ときらびやかな女の子たちの姿を視線で追っていた。
名刺の地図に記してある、六本木ミッドナイトビルは、飲食店ばかりが入った近代的なビルだ。
エレベーターで最上階である10階に上がると、スナックやキャバクラの看板にはさまれた通路の奥に、E'z Barという看板が見えた。
銀色のドアを押すと、チリンと音がして、すぐに柚木がこちらに振り返った。
白いシャツの袖をまくり上げ、黒いベストを着てソムリエエプロンを付けている。
春風を見て、嬉しそうに手を上げると、どうぞとカウンタ―に手を差し出した。
カウンタ―には女性が一人座っていた。彼女の白いワンピースは照明に反射してゴールドに輝いていた。比喩でもなんでもなく、本当にゴールドに見えたのだ。
柚木に連動するように、彼女は春風の方に振り向いた。ゴージャスな出で立ちと相反した表情。
世界中の不幸を一人で背負い込んでいるかのようなオーラをまとったその女性は、どこかで見た事のある女性だと、春風は思った。
思い出せないまま、席一つ開けて彼女の隣に腰かけた。彼女は空っぽになったショートカクテルのグラスを柚木に差し出す。
「おかわり」
柚木は彼女のグラスを受け取りながらこう言った。
「酔っ払いすぎですよ、恵梨香さん」
柚木の言葉で思い出した!
不倫のグラモだ!
24歳にして、全国カットコンテストで優勝を果たし、美容業界では文字通り一人前となった春風は、意気揚々と彼女に声をかけた。
「桃井さんですよね? 桃井恵梨香さん」
彼女はたちまち顔色を変え、そっぽを向いた。
「ごめんなさい。ファンだったんで、つい」
ファンというのは嘘だった。タイプでもなかったが、リアルで見る恵梨香はため息が出るほど妖艶で美しかった。酒で無防備になっていた彼女に声をかけない男はいないだろう。
「山道さんは怪しい人じゃないんで大丈夫ですよ。渋谷のカリスマ美容師です」
と、柚木が言った。
「いやいや、カリスマじゃないよー。僕なんかまだまだですよ」と謙遜する自分に酔っていた。
恵梨香は理解しているのかしていないのか、蕩けた目で春風の顔をじーっと見つめて、カウンタ―に上体を預けた。だらんと伸ばした腕に顔を乗せ、春風に向かってこう言った。
「人生どん底なの。夢見させてよ」
「あ、は、はい。僕でよければ――」
これが、似非元妻、桃井恵梨香の出会いだった。
恵梨香は春風の専属ヘアモデルになると、すぐにヘア雑誌の特集ページを飾るほど注目を集めた。
一瞬でもモデルの世界に返り咲いた恵梨香に、いい夢を見せてやれただろうか?
ふと、そんな事を思う。
恵梨香の不倫の話題は誰もが知っていたが、誰も何か言う者はいない。
息をのむほどの美貌に、誰もがひれ伏すしかなかった。
恵梨香のお陰で春風の客は増え、人気は爆上がりし、年収は1000万を超えた。
1年の交際を経て、プロポーズ。
ホテルの最上階のラウンジで、東京の壮大な街を見下ろしながら30回ローンで買ったダイヤの指輪を渡した。
彼女は迷う事なくうなづき、頬を紅潮させて喜んでくれた。
結婚式は恵梨香の希望通り、豪華に盛大に上げた。白く光沢を放つウエディングドレスに身を包んだ恵梨香は、この世で一番きれいだと思った。
挙式の後。ライスシャワーの中、お姫様抱っこをしながら招待客が作る花道を誇らしげに歩いた。恵梨香の重みと温もりを感じながら、絶対に離さないと強く思ったのに……。
一泊50万円のスイートルームは広すぎた。いや、ベッドの寝心地が最高過ぎた。
披露宴で飲み過ぎた春風は、文字通り夢の中にいた。
夢の中で愛する妻とまぐわっていた。キングサイズのベッドの上で、上になり下になり――。
バスルームからの新妻の喘ぎ声を、春風は夢の中で聞いていたのだ。
夢見心地のまま目を覚ましたのは明け方で、夢から醒めても恵梨香の喘ぎ声がバスルームから聞こえていた。
途端に、窓から見える東京の夜景は色を失った。
月夜に釜を抜かれるとはこの事だ。
――潔葉までも……。
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