第2話 奥菜百合子①

 あちらこちらで満開の桜がライトアップされ始めているというのに、奥菜百合子は疑心暗鬼という名の深淵しんえんに沈んでいた。


 美容室シュガームーンの二階。自宅の書斎で、ノートパソコンに向かい、SNSのハッシュタグを辿る。


 #表参道シュシュ #トップスタイリスト


 ヒットした投稿を眺めては、ため息を吐く。

【まあみん】という投稿者は、まるでモデルのように若くて可愛らしい。そのまあみんと一緒に満面の笑みで、頬を寄せ合うように写真にうつる恋人、風間真司にモヤモヤが募る。

 まあみんが、お客である事には間違いない。

 美容室ではよくある光景だ。完璧に仕上げたヘアースタイルで、担当のスタイリストと写真を撮る。お客はそれをSNSにアップし、承認欲求を満たす。

 サロン側は、お客にそうさせる事で宣伝効果も期待できる。

 そんな事は十分に理解しているはずの百合子が、風間を責めたり問いただしたり、そんなみっともない事ができるはずもない。

 見なきゃいいのに、隅々まで見てしまう。

 それが、SNSだ。


 結果、乱れたホルモンバランスはイライラを増幅させる。


 しなきゃいいのに、まあみんのメディアをチェック。


 すると――。


 産婦人科の入口でピースサインをするまあみんを見つけた。10日ほど前の日付が記されている。

 既婚者、或いは恋人がいるようだ。その写真には『赤ちゃんできました』という喜びのツイートが添えられていた。満面の笑顔でピースサイン。彼氏或いは夫が撮影したものだろうと推測できる。

 ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間――。

 百合子の目に留まったのは、まあみんの後ろに不意に映り込んでいる一人の女だ。

 ちょうど、産婦人科の入口から出て来たところのようだ。

 その女の姿に、百合子のホルモンバランスは崩壊した。


 美影潔葉。


 真司の元妻。


 潔葉と真司は離婚してから、まだ1年経っていない。

 産婦人科から出て来たとは、一体どういう事なのか。


 もしかして――。


 真司の子供を妊娠してた?!


 画像はぼやけていて、表情までは分かり辛い。幸せそうにも見えるし、不安そうな面持ちにも見て取れる。


 百合子の脳内で憶測が展開されていく。

 ここ数日、真司からの連絡は途絶えている。


 二人は離婚当初、妊娠に気付いていなかったとしたら。

 いや、それでは計算が合わない。離婚は昨年の5月のはず。既にお腹は大きくめだっているはずである。画像を見る限りではお腹に膨らみは見て取れない。


 だとしたら――。


 関係は離婚後も続いていた?

 潔葉は真司を取り戻すために、例の争いごとの話をしたかもしれない。

 あの田中が見せて来た動画が、どこからか拡散されて、真司の目に留まったのだとしたら――。


 責任感の強い真司の事だ。職を失った潔葉を密かに支えていたのかもしれない。    

 意地悪な百合子に愛想を付かした真司の気持ちは、潔葉に傾いた。

 焼け木杭には火が付きやすい。


 そんな憶測がパズルピースを埋めていき、絶望的な絵が出来上がった。


 ネットで『美影潔葉』を検索するも、ヒットしたアカウントの中身は空っぽで、プロフィールは5年以上アップデートされていない。

 ツイッターからも消えている。

 潔葉の在職中、仲良くしていたスタッフは全員やめてしまい、近況を聞き出す事は無理だ。潔葉の現在の状況を知る術はない。

 時刻はちょうど22時。

 居ても立っても居られなくなった百合子は、真司に電話をかけた。


 5回ほどの着信音の後、「もしもし」といつも通りの声。

「真司……」

「百合子? どうしたの?」

「今夜、会える?」

「ごめん。ちょっと色々あってね。しばらく忙しいんだよ。まだ仕事中だし」

「そう。仕事の邪魔してごめんなさい。じゃあ、また連絡します」

「うん。ごめんね。また」

 間髪入れずに電話は切れて、静寂が訪れた。


 いろいろとは、なんだろうか?

 新生活のための準備?

 いや、もう、新生活は始まっているのかもしれない。

 百合子は実家暮らしである真司の自宅には、一度も行った事がない。

 正式に付き合いを始めてからまだ半年足らずだ。もちろん結婚という話もまだ出て来ない。こんなにも恋愛期間が長かったにも関わらず、プロポーズして来ないなんて。やはり真司と潔葉は戻ってるのではないか?


 そんな事を考えだしたら脳は冴えわたり、眠れないまま夜が更けて、朝を迎えた。

 時刻は5時。


 のっそりと椅子から立ち上がり、書斎を出た。

 洗面所に向かい、鏡を覗き込むと、どんよりとどす黒い顔の女が、不愉快そうに口を歪めて長い髪をかき上げた。

 今頃、潔葉は優しい真司の胸に抱かれて、幸せな夢を見ているに違いない。


 ふつふつと沸き上がる怒りに任せて服を脱ぎ、シャワーを浴びる。熱いシャワーで体があたたまり、神経が緩んでくると、ふと、いい案が降りてきた。

「満島月子レディースクリニック……」

 画像にあった産婦人科の看板の文字を、ぽつりとつぶやいた。

 その呟きはまるで天から降ってきたお告げのように、百合子に深い意味を持たせる。

 あれは、個人の産婦人科。

 と言う事は、美影潔葉は、その近所に住んでいる可能性が高い。


 妊娠中のメンタルは、不安定になりやすい。

 二人の関係を壊すのは、前回よりも簡単なはずだ。


 もうもうと湯気が充満するバスルームで、百合子の嫉妬は、殺意に変わり始めていた。

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