奥菜百合子②

 どす黒く変色している目の下に、コンシーラーを叩き、顔色の悪さを化粧で誤魔化す。

 乾かしっぱなしの髪に、ハーブオイルを塗り込んで、ストレートアイロンでざっと整えた。

 薄いニットのワンピースに着替えて、外に出る。

 まだ冷たい外気が、薄着の体を少し冷やした。


 目的地は先ず、潔葉のマンション。履歴書の住所を頼りにマンションに辿り着いたが、郵便受けの表札には別人の名前があった。

 引っ越ししているらしい。そうなるとやはり真司と一緒に暮らしているという疑念が真実味を帯びてくる。

 ここまで来たら、どうしてもこの目で確認しなくては――。


 次に行くのは、満島月子レディースクリニック。

 その産婦人科は、百合子の住まいからも、表参道シュシュからもほど近い、渋谷区役所の近くにあった。


 徒歩でも10分とかからない場所だ。

 歩きなれた街を、カツカツとヒールを鳴らしながら進んで行く。

 商業ビルが立ち並ぶ大通りを抜け、満島月子レディースクリニックの周辺に辿り着いた。

 しかし、やる事といえば通行人に目を凝らし、潔葉らしき女性を探す事。もちろんそんな簡単な事じゃない。それぐらいは百合子にもわかっている。

 上手く遭遇するなど、途方もない確率だろう。

 しかし、百合子はそうせずにはいられなかったのだ。ひたすら区役所の周辺を歩く。

 ばかばかしくなるほど、足を酷使する以外、自分を納得させる方法が見当たらなかった。


 朝食も取らずに家を飛び出したせいで、空っぽの胃はキリキリと痛みを訴え始めていた。

 時刻は12時少し前。

 大通りに面した、チェーンのコーヒーショップは混み始めている。

 席に余裕があるうちに、百合子はそこで休憩を取る事にした。

 温かいラテとチキンのカンパーニュを注文し、窓側の丸テーブル席に陣取る。

 湯気を上げるプラスチックカップを両手で包み込んで、温まる。甘いカフェインの匂いは緊迫していた百合子の心をわずかばかり緩めた。

 一口すすれば、睡眠不足の病んだ体に染みわたり、たちまち癒され、はぁっと息がもれた。

 噛みごたえのある香ばしいカンパーニュと、塩気の利いたチキンはたちまち胃袋を満たした。ふと気づけば、足はじんじんとむくみを訴え、歩く事を拒否しているかのようだ。ヒールに当たるかかとは擦れて靴をきちんと履く事さえ嫌気がさす。

 段々とばかばかしさが込み上げて――


 ――もう帰ろう。


 そう思った時だった。


 ターゲットが百合子の目の横を通過したのだ。


 美影潔葉。

 彼女は百合子に気付かなかった。

 どうやら同じ店内で食事をとっていたらしい。


 百合子も急いでトレーを片付けて、店外へ飛び出した。

 ざっくりと編み込まれたニットのジャケットにタイトなロングスカート。肩には帆布のトートバッグ。足元はスニーカー。潔葉は駅の方へと歩みを進めている。

 バクバクと脈打つ心臓を持て余しながら見失わない程度に距離を保ち、その後を付ける。


 潔葉は駅からほど近い、自然食が売りのスーパーへと入った。

 少し遅れて、百合子も自動ドアをくぐった。


 この日は、日曜日。

 店内は子連れの主婦も多い。優雅に買い物をする主婦たちの傍らで、自分の背丈を超える大きなカートを押し、はしゃぎながら走り回る子供の姿も目立つ。


 店内の棚にはワインやシャンパンの酒瓶なども積まれていて、見ていてハラハラする。

 親らしき女性は、スーパーでたまたま遭遇したと思われるお友達と夢中でおしゃべり。

 誰もとがめない子供たちは、店内の通路を縦横無尽にカートを押しながら走り回る。

 カート一台分なら余裕で通り抜けられそうな通路を走り抜ける子供たち。その隣の通路には潔葉の姿がある。通路を渡り切った潔葉が、もし右に曲がれば衝突する。

 その衝突は、百合子が今、危ない! と声を上げれば防ぐ事ができる。刹那に絡み合う悪意と良心。子供が押すカートが勢いよく通路を通過しようとしたその時――。

 潔葉は右に曲がった!

「あ!」と声を出した時はもう遅かった。

 ガシャーーンという派手な衝突音が店内に響き、「きゃー」という悲鳴が聞こえた。


 急いでそちらに駆け寄ると、苦痛に顔を歪めながら、潔葉は床に転がっていた。当たりには真っ赤な液体が床を染めていた。


 すぐに店員が寄って来て「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」と声をかけている。

 百合子は思わず、潔葉に駆け寄っていた。

 店内はアルコールの匂いが充満し、鼻腔を強く刺激する。


 赤い液体は、ワインの瓶が床に落ちて割れただけだったのだが、潔葉は腹部を抑えて苦しそうな顔をしている。

 床に転がるトートバッグから、中身が辺りに散乱していた。

 バッグを拾い上げて、落ちたものを拾ってやると、荷物の中に、小さめの黄色いノートが目に付いた。

 母子手帳だ。


 その表紙を見て、百合子は震えた。


【氏名】の欄に『山道潔葉』と書かれてあったのだ。

 潔葉は春風と結婚していた。お腹の中の子供は春風との子供だったのか。


 とんでもない勘違いをしていた事にようやく気付き、体がわなわなと震える。

 あさましく、愚かな妄想で、幻覚をみていた。


「妊婦さんです! 救急車を呼んでください」

 気が付いたらそう叫んでいて、潔葉の背中をさすっていた。

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