奥菜百合子③

「もう間もなく救急車到着します!」

 スーパーの店員がそう叫んだのは、事が起きてから10分ほどが経過した頃だ。現場は一体となっており、店員も客も潔葉の周りを取り囲み、気持ちを一つにしていた。

 

 ほんの数分前、潔葉にぶつかったと思しき子供の親は、床に散らばった酒瓶の破片を見てこう言った。


「弁償します」


 百合子は思わず

「その前に言う事があるでしょう!」

 とその母親を一喝した。恫喝と言ってもいい。

 ほぼ、咄嗟にそう声を上げていた。

 泣き出した子供の手を引き、母親はそそくさと店を出て行った。

 

 モヤモヤは店内に浮遊したままだったが、今はそれどころではない。

 お腹をおさえて痛みに顔を歪める潔葉の姿は、店内をどよめかせている。


 百合子は、申し訳ない気持ちと頑張って欲しい気持ちが交錯して、いつの間にか先陣を切って、その場を仕切っていた。


「毛布とか、タオルとかありませんか? 温めた方がいい!」

 百合子の言葉にあたふたと走り回る店員たち。曲がりなりにも10年近く、人気サロンの先陣を切ってきたのだ。人を動かすのは造作もない。


「破片!! ここに破片!!」

 酒瓶の破片を見つけては、おろおろとしている店員を呼びつける。


「奥菜……社長?」

 潔葉が、百合子に気付いた。


「がんばるのよ! お母さんになるんでしょう」

 そう声をかけると、胸の底から熱い物が込み上げて、罪悪感が輪郭を成す。

 わだかまりも見せずに、力強くうなづく潔葉に少し救われた。


「タオル、あるだけ持ってきました」

 若い女性店員が数枚積み重ねたタオルを百合子に差し出す。

「それで、お腹周りを覆って。それからクッション代わりに頭の下にも敷いてあげて」

 そう言い残して、店の外に出た。


 救急車を誘導するのだ。


 百合子のスマホに登録してある、潔葉の夫である山道春風に、何度か電話をかけるが、ことごとく留守電に繋がってしまう。留守電のメッセージに『奥さんが大変です。連絡ください』と録音はしてあるが、未だコールバックがない。

 どうにか、春風と連絡を取りたいが忙しいのだろうか。


 救急車はどこから来るかわからない。

 キョロキョロ辺りを見回していると、遠くでサイレンの音が聞こえた。

 大通りに出て、音のする方に耳を傾ける。

 徐々に大きくなるサイレンの方に向かって、両手を大きく左右に振った。


「こっちーーー!! こっちでーーーす!!」

 なりふりかまっていられない。胎児と言えど、人ひとりの命がかかっているのだ。

 しかもその命は、自分が育てたかわいい従業員の子供なのである。

 春風が、経済的に不安定なアシスタント時代。何度ご飯を食べさせただろうか。前借りというシステムがサロンに根付いたのも春風のせいだ。

『あのね、給料って言うのは限られてるんだから計画的に使わなきゃダメなのよ』

 手取りで20万ほどの給料を、1週間ほどで消費してしまう春風に、幾度そう叱咤しただろうか。

 手のかかる子だったが、全国カットコンクールで優勝した時は、自分の事以上に嬉しかった。負けず嫌いで、誰よりも努力家だった。


 そんな関係すら一瞬で壊してしまった。


 全て自分の招いた事だ。


 ヒールを脱いで、靴擦れで傷んだ素足をアスファルトに踏ん張る。

 そして、姿を現した救急車に両手を振りながら飛び上がる。

「こっち、こっちーーー!!」


 救急車は百合子の前でスピードを緩めて右へ旋回。サイレンの音を止めた。

 これまでの時間、僅か15分程度だったのかもしれないが1時間、いや、2時間にも感じた時間だった。


 スーパーの前で止まった救急車から隊員が降りてきてからは、早かった。

 担架に乗せられた潔葉は速やかに救急車の中へ。


「身内の方かお知り合いの方、いらっしゃいますか?」

 救急隊員の声に百合子は勢いよく手を挙げた。


「はい!! 知り合いです!」

「では、一緒に乗ってください」

「はい!!」


 慌てて靴を履いて、潔葉が運び込まれた救急車に乗り込んだ。


 春風から連絡が入ったのは、救急隊員が搬送先の手配やら、潔葉の応急処置をしている最中の事だった。


「渋谷総合病院に搬送しまーす」

 隊員の落ち着いた声に、気持ちが少し和らぐ。


「渋谷総合病院に搬送されるわ。直接病院に行ってちょうだい。救急車には私が同乗します」

 おろおろと言葉を詰まらせる春風に、簡単に経緯を告げて、通話を切った。


 高らかにサイレンを響かせながら、渋滞する車両の隙間を器用に抜けて、救急車は順調に病院を目指す。

 見たところ潔葉に出血はなさそうだ。


 ――大丈夫。きっと大丈夫。


 百合子はそう自分に言い聞かせて、潔葉の背中に手を差し込んでは、さすり続けた。

 しかし、百合子の期待とは裏腹に、潔葉は徐々に意識を遠のかせて行った。



 ・・・・・・・・・・・・・・


 緊迫する処置室前の廊下。

 ひんやりとしたアルコールの匂いに包まれて、百合子はぎゅっとワンピースの裾を握っていた。


 ドクターに説明を受けていた春風が、神妙な顔で診察室から出て来た。表情から安否は伺えない。

「どうだった?」

 そう訊ねると、春風は軽くお辞儀をしてこう言った。

「母子ともに、問題ないそうです。ありがとうございました。お世話になりました」

 その言葉を聞いて、全身の力が抜けた。

 長椅子の背もたれに体を預けて、両手で顔を覆う。安堵の涙とはいえ、人に泣いている所を見られたくない。


「たまたま偶然、社長と居合わせてよかったです」


 百合子は大きく首を横に振った。


「違うのよ。違うの」


「え?」


「ごめんなさい。どうしても潔葉さんが気になって、後をつけたの。見かけたのはたまたまなんだけど、私はとても……とても意地悪な気持ちで……」


「社長?」


「ごめんなさい。私があの時、子供を注意して止めておけば、こんな事にはならなかったのに――」


 戸惑う春風。


 しかし、百合子は謝らずにいられなかった。結果的に無事だったとはいえ、一歩間違えれば取返しの付かない事になっていたのだ。

 崩れ落ちるように、椅子から滑落して床に膝をついた。


「ごめんなさい。ごめんなさい……。お腹の赤ちゃんは、風間の子供だと思ってたの」


 顔を覆って、床にひれ伏す百合子を、春風は慌てて立ち上がらせた。


「大丈夫です。社長は悪くありません。俺がちゃんと報告すればよかった。いろいろと田中さんとの出店準備で忙しくしてたし、あの、なんていうか、ああいう辞め方してしまったし、連絡取りづらくて。すいませんでした」


 百合子は、両手で涙をごしごしとぬぐい取って、春風に顔を向けた。


「お店出すって、噂に聞いてたわ。おめでとう。パパになるんだもんね。頑張らなきゃ」


 そう言って、ハンドバッグを肩にかけた。


「じゃあ、私は帰るわね」


「あ、社長」


「なに?」


「潔葉は、あのー、単なる便秘だったみたいで」

 ははは~と、気まずそうに笑いながら、後頭部をポリポリ掻く春風。


「え?」


「あいつ、見かけに寄らず、野菜嫌いで。食物繊維不足かな? 日頃から便秘で悩んでたんですよ。今回、あのスーパーで限界を迎えたみたいで……。大腸がパンパンになっちゃったみたいで……。社長が気にしてるような、接触事故は、なかった、みたいです」


「本当? それ」


「はい」


 更に、体からするすると力が抜けた。

「よかった~」


「もう、会えるんで、会って行かれませんか?」


 その提案に、百合子は少し戸惑ったが、答えは決まった。


「そうね。言わなくてはいけない事があるし、会わせてもらうわ」

 春風は口の端を緩やかに上げて【応急処置室】と書かれた部屋のドアを開けた。

 春風に続いて、百合子もそのドアをくぐる。

 簡易に仕切られたカーテンを開けると、顔色が少しよくなった潔葉が寝たままの状態で気まずそうに会釈をした。


「社長、ご心配おかけしました」


 百合子はベッドのわきに膝をついて屈み、真っすぐに潔葉を見た。


「たくさんあなたを傷つけてしまって、ごめんなさい。こんな事で償いにもならないけど、応援してるわね。幸せになってちょうだい」


 潔葉は首を横に振った。


「私、彼がずっと浮気をしているように思ってました。それはきっと、自分が彼を裏切ってたからなんだと思います。私は結婚している時もずっと、春風の事を思ってた。心では彼を裏切ってたんです。だから、彼の態度全てを疑ってしまった。今は、別れてよかったと思ってます。あの時、社長が言った、自分で離婚を選んだんでしょう。その結果を全て受け入れなさいって。自分で離婚を選んだのに、みっともなく真司に執着してたのは私の方です。春風が既婚者だと思い込んでて……。素直に春風に気持ちを寄せる事ができませんでした。社長、私の方こそ、ごめんなさい」


 百合子は首を横に振った。


 潔葉は更にこう続けた。

「社長こそ、幸せになってください」


「ありがとう」


 百合子は礼を言って立ち上がった。

 しかし、意地悪な気持ちで潔葉を入社させた事には変わりない。いたずらに傷つけてしまった。そんな自分の浅ましさをまざまざと見せつけられた百合子は、もう決心していた。


 真司に、別れを告げる。

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