最終話 最愛の人

 池袋駅からほど近い、大通りに面したガラス張りのビルの5階。

DELICIAEデリシア Hair Desaignヘアーデザイン】の看板に電気が点いたのは、桜が散り始めた頃だ。

 別れの季節が過ぎ、新たな出会いと旅立ちが街を彩っていた。


 真新しい匂いに包まれた店内には、嵌め殺しの窓に向かってセット面が6面。その後ろには、寝心地に拘りぬいた、フルフラットのシャンプー台が3台並んでいる。

 ちょうどその裏が、スタッフ控室だ。


 控え室の隅っこには、名ばかりの社長椅子。中古屋で買った、背もたれ付きのクルクル回るデスクチェアーに腰かけている田中は、パソコンの画面とにらめっこ。


「オープンしたはいいけど、新規客を開拓するのは至難の業だな」

 そう言ってメロンパンをかじった。


「まぁ急でしたし、クーポンサイトの宣伝効果に期待できるのは、もう少し経ってからかもしれませんね」


 とはいえ、共同経営という形で立ち上げたこのサロンの売り上げは、春風の暮らしにも直接影響を及ぼす。


 奥菜を裏切る形で退職した春風と田中と瞬と姫香の4人でスタートしたデリシア・ヘアデザイン。

 各々が、シュガームーンで担当していた客には、一切連絡を取っていない。つまりゼロからのスタートだ。本日の売上げは、ゼロかもしれない。そんな、戦々恐々としたオープン初日を迎えていた。


「かっこつけすぎたな」

 と、しょぼくれた顔を見せる田中。


「どちらにしても、顧客名簿を持ち出すのはご法度ですし、独立とはそういう事でしょ」


「店長ー、店長ーーー。山道ディレクター!! お客様です!!」

 姫香がドタバタとノックもせずに控え室のドアを開けた。


「ええ? お客様!!」

 急いでパイプ椅子から立ち上がる春風。田中は危うく椅子ごと後ろにひっくり返るところだった。


「飛び込み?」


 そう訊ねると、姫香はただならぬ事がおきているかのような表情で「それが……」と言い淀んだ。

 春風と田中の視線が姫香に集中する。


「奥菜社長です」


「え? 奥菜社長?」


「はい。お祝いのお花を届けに来てくださいました」


 春風と田中は顔を見合わせた。奥菜にサロンの場所とオープンの日程を教えたのは春風だ。

 春風の方は潔葉の一件でわだかまりはもうないが、田中はさぞ気まずいだろう。

「俺、対応しましょうか? 店長、外出してるって事にでもしますか?」

 そう訊ねると、田中は幸せの黄色いメロンパンを袋にしまい、立ち上がった。

「そういうわけにはいかんだろう」

 そう言って、ポリポリと額を人差し指で掻いて、シャツにこぼしたパンくずを払った。


 先に扉の向こうへと歩き出す田中について歩く。


 受け付けカウンタ―の前には、すっかり春めいたモーブピンクのワンピース姿。凛と佇んでいるのはなんだかすっきりした顔の奥菜だ。


「どうもご無沙汰してます」

 田中が先手を取る。


「お疲れ様です。オープンおめでとうございます。配達にしようかと思ったんですけど、どんなお店ができたのか見てみたくて。急にごめんなさいね」


 ガラスのベースに彩られた、ロマンティックな色合いのアレンジメントフラワーを差し出した。

 それを春風が受け取る。


「わざわざありがとうございます。うわ、重たい。重たかったでしょう」

 そう労い、大げさに笑顔を振舞った。


 奥菜の顔に、気まずさはない。そこには、かつて鬱陶しいほどに世話を妬いてくれていた、温かく、気品ある、鋼の女社長の姿があった。

「わざわざすいません。ありがとうございます。どうぞ、見てください」

 田中は店の奥に手の先を差し向ける。


「お邪魔するわ」


 奥菜はサロンを見回し、確かめるように、セット椅子一つ一つを手の先で撫でながら、奥へと進んで行く。

 満足そうに、誇らしそうに。


「私が社長になってから、初めてよ。独立したスタッフは」

 シュガームーンは都内のサロンの中でも待遇はいい方だ。何より長年経営が続いている事で、さほど努力しなくとも看板だけでお客が来る。先人が敷いたレールの上を悠々と歩いて来た。

 春風も田中も、独立するなどバカらしいと思っていた口だ。


「羨ましいわ。こういう経験ができるなんて」

 それは皮肉でもなんでもなく、奥菜の本心だと、春風は思った。


「恐縮です」

 田中が少し気まずそうに合いの手を入れる。


「しかし、暇そうね」

 ズキンとプライドが痛む。


 無言で項垂れる春風と田中。


「切ってもらおうかしら」


「え?」


「予約が必要?」


「いえ。大丈夫です。どうぞ」


 春風はカット椅子を回した。


「シャンプーもしてもらうわ。トリートメントもしてちょうだい。一番いいのを」

 そう言って、ストンと椅子に腰かけ、肩に掛けているハンドバッグを差し出した。

 丁重にお預かりして、姫香に渡す。


「かしこまりましたー。ありがとうございまーす」

 田中と姫香、そして瞬しかいない店内は、にわかにざわつき、バタバタと動き出した。


「担当のご指名はございますか?」


「そうね、田中店長に切ってもらいたいわ」


「はい、喜んで!!」

 田中は、不意にムチで打たれたかのように、体を飛び上がらせて飛んできた。


「それじゃあ、山道ディレクター、シャンプーお願いします」


「え? 俺?」

 そこは姫香だろ~と思いつつも、春風は奥菜をシャンプー台へ案内した。

「こちらへどうぞ」

 背中を覆う、まっすぐな黒髪をクリップで止めて、クロスをかける。


「けど……、いいんですか? うちで切って。彼氏さんも美容師でしょう?」

 よくよく考えたら、ここ数年、奥菜の髪をスタッフは誰一人触った事がなかった。きっとシュシュの風間に手入れしてもらっていたのだろうと、今なら察しがつく。


 奥菜はふふっと笑ってこう言った。


「いいのよ。今度から毎月ここで手入れさせてもらうわ」

「え? 毎月?」

 ウィーーーンと静かな音を立てて、シャンプー台がフラットになる。


「ええ。毎回指名を変えて、いろんなヘアスタイルを楽しむわ」


「そ、そうですか……」

 クリップを外して、シャンプーボウルの中で長い髪を指で梳く。ゆっくりとレバーを上げると、すぐに完璧な温度の湯が湯気を上げ始めた。


「赤ちゃんは、順調?」

「はい、お陰様で、その節はお世話になりました。潔葉も、もうすっかり元気です」

「それはよかったわ。本物の家族ができると働き甲斐もあるわね」

 本物の……という形容動詞が引っかかる。


「ははは~」


 元はと言えば、あの嘘が全ての発端だったのだ。


「本当、すいませんでした」


「いいじゃない。あれがあって今があるんだから。こんな素敵なお店を手に入れたのだから」


 もしもあの時、津田と恵梨香をボコボコにぶん殴って半殺しにしていたなら――。

 もしもあの時、潔葉の結婚式をぶち壊して奪っていたなら――。


 違う今になっていたのだろうと思う。


 あの時の春風を、意気地がなくて、情けない男だと、人は笑うのだろう。


 必死で取り繕い、足掻いて出来上がった物は、思い描いた通りの形じゃなかったかもしれない。


 思い描いた通りの場所に辿り着いたとしても、それはいびつなストーリーと言わざるを得ないだろう。


 しかし、人生に『if』もしもはない。

 過ちによって生まれたひずみを、誤魔化しながら埋めるように、生きていくしかないのだ。


「ところで、デリシアってどういう意味?」


 奥菜が思いだしたように、そう訊いた。


「ラテン語で、最愛の人っていう意味なんですよ」


「へぇ、素敵ね」

 奥菜はかみしめるようにそう言って、そっと目を閉じた。

 その顔は、幸せに満ちているようにも見えるし、悟りを開いて、大切な何かを諦めた顔にも見える。


「力加減よろしいでしょうか?」

 取ってつけたようにそう訊ねると、まるで聞こえていないかのように何も言わなかった。


 流し終えて、拭きあげた髪を再びクリップで留めて、セット面に案内する。そこにはカット椅子の背もたれを持つ田中。


 その椅子に、満足気に腰かけた奥菜は、ポケットから何かを取り出して、田中に差し出した。


「これ――」


 奥菜の手の中には、黒くて細長い棒状のプラスティック。


「え? これって、メモリースティック」


「田中店長と山道ディレクター、それから青木君の顧客のデータが入ってるわ」


「え? いいんですか?」


 田中の顔は複雑に紅潮する。


「お客様は、きっと困ってる。これまでの美容師さんに髪を整えてほしいはずよ」


 もしも春風が田中の立場だったら、きっと膝から崩れ落ちている。不義理をひれ伏して謝罪したいと思うだろう。


 田中は春風の思考に操られているかのように、全くその通りの行動を取った。


「社長……、すいませんでした。ありがとうございます。ありがとう……ございます」


「社長、すいませんでした」

「すいませんでした」


 一連のやり取りを、ただ黙って見ていただけだった瞬と姫香も、丁寧に腰を折り、奥菜に謝罪をのべた。


 奥菜は一人一人の肩をさすり、握手を求めた。

「ほら~、そんな顔しない! お客様はみんな誰かの最愛の人! 顔を上げて、お客様を迎える準備をしなくちゃ」


 店名の意味を、説明せずとも完璧に理解していた奥菜に、春風は驚きと尊敬を禁じ得なかった。

 知らず知らずのうちに、奥菜イズムが、田中にも春風にも根付いていたのだ。

 どうしようもなく、シュガームーンの人間だった。


『お客様は誰かの大切な人。恋人であったり、家族であったり。それを忘れずに、今日も、お一人お一人を、大切に。幸せにしてあげられるよう尽力してください』


 奥菜が朝礼で必ず言うセリフだった。


「「「「はい!」」」」


 まるで、シュガームーンでの朝礼の時のように、全員が姿勢を正して、そう、返事をしていた。


 世の中に完璧な人間などいない。むしろ、だれもが、完璧に人間なのだ。


 時に感情に振り回され、理性に負け、黒い歴史を作ってはそれを塗り替えようと足掻く。

 しかし、塗り替える術なんてものはない。

 それが自分なのだと受け入れて、時流に身を任せると、あの時より、ほんの薄皮一枚成長している自分に会える。



 奥菜の長い髪に、田中が鋏を入れる。


 カチン、カチンと、鋏が鳴るたびに、春風は一歩一歩前進しているような気がしていた。



【完】



 長い事お付き合いいただきありがとうございました。

 これにて、『僕は君の瞳を見つめて嘘を吐く』完結ボタンを押したいと思います。

 応援、本当にありがとうございました!!

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