第3話 彼女はもう振り返らない
◆◆◆Side―春風
「正月休みって、あっという間だな」
見飽きた天井を見つめながら、ぽろりと、ありきたりなぼやきをこぼす春風。
元旦の朝から、二人一緒に買い物に出かけ、正月料理を作った。
即席の洋風おせちに、関西風白みそ仕立ての雑煮。
煮しめに、二人すき焼き。昨夜は二人でたこ焼きパーティをした。
数えきれないほどのキスをして、境目が曖昧になるほど裸で抱き合った。食も性も、充実した3日間を過ごした朝。
「もう、帰っちゃうんだな」
ベッドの中で、春風の腕に頭を乗せて、裸で寄り添う潔葉を抱き寄せた。
何度重ね合わせても、苦しいほどに欲情を誘う体に顔をうずめる。
そんな春風の後頭部を、潔葉は優しくなでながらこう言った。
「これまでの人生で、一番幸せなお正月だった。一生忘れないよ。春風、ありがとう」
今にも、さよならと呟きそうな、コーラル色の濡れた唇を、キスで塞いだ。
日に日に増していく潔葉への気持ち。強くなっていく離れたくないという思い。
行かないでほしい。またすぐに戻って来いよ。
そんな言葉を飲み込むように、強く唇を重ね合わせた。
潔葉の吹っ切れたような顔を、しばらく切ない気持ちで眺めて、勢いよく起き上がり、生身の背中を見せた。
「そろそろ準備しようか」
飛行機の時間まで2時間30分。バス移動や手続きを加味すれば、タイムリミットだった。
軽くシャワーを浴びて、服を着替え、潔葉の身支度を待つ。
こんな時でさえ、かっこ悪くなりたくない春風は、一番大切な、一番伝えたい言葉を、心の一番奥底に押し込めた。
――愛してる。結婚したい。一生一緒にいたい。
正直なところ、もうどうしていいのかさえも、わからなくなっていた。
どうしたって離れて行ってしまうのだ。
昨日、潔葉の部屋で、最後の荷物をスーツケースにまとめて自宅に運んでおいた。それを空港まで持ってやるのが、潔葉のためにできる、最後の事だった。
ワインレッドのワンピースに、黒いコートを羽織って、よそ行きの顔をした潔葉が春風の前に立った。
「お待たせ」
日に日にきれいになっていく潔葉が、皮肉な事に、今この瞬間、一番きれいに見える。
しっかりと輪郭を作る赤いリップを崩さないよう、キスは我慢した。
華奢な肩を抱き寄せて、両手で包みこむ。
「福岡に、会いに行ってもいい?」
そう訊くと、潔葉は薄く笑ってうなづいた。
「何もない所だけど」
「お前がいれば十分だよ」
「ふふ」と冗談みたいに笑って、スーツケースを持ち上げた。
山手線、南改札を抜け、次々に沸いて来る人波を避けながらバス乗り場へと急ぐ。
右手にスーツケースを、左手で、潔葉と手を繋ぎ、閉ざされた通路を通り過ぎる。
「ごめんね。空港まで付き合わせちゃって」
「いいよ、そんなの。どうせ家にいてもやる事ないしな」
嘘。本当は少しでも長く一緒にいたかった。
「何よ、暇つぶし~?」
潔葉は笑いながら頬をふくらませた。
春風は繋いでいる手に力を込めて引き寄せる。
「バカ。ほら、人にぶつかるだろう」
そう言いながら、潔葉の体を寄せて、腰に手を回す。
「本当、俺がいないと全然ダメじゃん」
そう言った声は、かっこ悪く震えていた。
体側を密着させながら、バス乗り場まで歩いた。
間一髪で間に合ったリムジンバスに乗り込み、窓側の席に潔葉を先に座らせて、その隣に腰かける。
バスの中は静かで、話し声が響くから、耳に口を寄せ合いひそひそとくだらない話をしていた。
立派にハゲているのに、絶対にハゲだと認めない爺ちゃんの話だとか。中学時代、近所の散髪屋でツーブロックをオーダーしたら、見事な角刈りになった話だとか。
実家の大阪の美容室では『パーマきつくかけて』というのが、オーダーナンバーワンだとか。
どう見てもくだびれた爺さんなのに、38歳だと言い切るアラ還のお客の話だとか……。
そんな下世話な話に、潔葉は声を押し殺して苦しそうに笑うものだから、春風は調子に乗って話し続けた。
「その話、一生わすれないわ」
と、笑い泣きする潔葉に
「俺の事も忘れんといてや」
と思わず関西弁が出てしまったり――。
「春風の関西弁、初めて聞いた」
「普段は頑張って東京弁でしゃべっとんねん。ここ、東京やからな」
思いのほかウケたので、その後は関西弁でしゃべった。
とにかく、ここぞとばかりに関西人の意地でしゃべり倒した。
沈黙がもったいなかった。
もっと笑顔が見たかった。
会話が途切れるのが、怖かった。
空港に到着したのは、出発時刻の30分前。
急いで搭乗手続きをしなくてはいけない時間だ。
潔葉は小走りで自動チェックイン機へ向かい、春風はスーツケースを手荷物カウンタ―の前まで運ぶ。荷物を預けたら、もう飛行機へ乗り込む時間になってしまう。
気持ちとは裏腹に、潔葉が遅れないよう、手助けしてしまう。
矛盾している自分が悲しくなる。
チェックインを終えた潔葉が春風に向かって走って来る。スローモーションのように、肩で遊ぶ毛先を揺らしながら、今にも春風の胸に飛び込んでくるのではないかという勢いで――。
いつでも全力で受け止める。両手を広げる準備は出来ている。
そんな努力はむなしく、期待を裏切るように潔葉は目の前で視界から消えた。
腰を折り、「ありがとう」と言って、スーツケースを受け取った。
その横顔に、影が見えたような気がした。
きゅっと口を引き結んで、何か言葉を飲み込んだような表情。
「潔葉?」
「なに?」と春風の方に上げたその顔は、ちゃんと笑っている。眩しいぐらいにクリアな笑顔を咲かせている。
気のせいか?
「何でもないよ。元気でな! 絶対連絡しろよ」
「うん。わかってる」
終わりの見えない、会えない日々が始まるかと思ったら、永遠の別れのような気がして言葉が詰まる。
ここへ来るまでに、全ての語彙を絞り出したかのように、気の利いた言葉が何一つ出て来ない。
搭乗口に気を取られかけている潔葉の体を、ぎゅっと抱きしめた。
ひと目もはばからず、両腕で強く包み込んだ。
「春風……恥ずかしいよ」
「別にいいだろう」
「痛いよ」
「ごめん」
それでも離れる事ができない。
「遅れちゃう 」
「うん。ごめん」
ようやく解放して、靴先に視線を落とす。
「じゃあ、行くね」
「うん、じゃあ」
重い頭をもちあげて、小さく右手を上げた。
最後尾の乗客が、もうゲートをくぐろうとしていた。
その後に続いて、潔葉がゲートをくぐる。
一回振り向いて、両手を大きく振った。
春風もそれに応えるように、両手を振った。
背中を向けて、颯爽と通路を歩く潔葉の後ろ姿は、もう二度とこちらを振り向く事はなかった。
・・・・・・・・・・・・
次の日。
昨日までの事が、全て夢の中での出来事だったのではないかと思うほどに、潔葉との時間は、儚く泡沫となった。
腕の筋肉痛と、気怠い腰。強張る背中。蓋が閉まり切らないほどに、ビールの缶や酒瓶が溢れるキッチンのごみ箱。
それらだけが、潔葉との時間は確かにあったのだと教えている。
のっそりとベッドから起き上がり、洗面所へ向かう。
重いのは体より心だ。
潔葉と物理的に会えないという現実は、思いのほか春風にダメージを与えていた。
一体、なぜ急に九州へ帰るなどと言い出したのか。
こんなにも、お互いの気持ちは同じなのに、全てを春風に委ねないのは何故なのか。
肝心な事は何一つ言わずに、潔葉はとうとう帰郷してしまった。
顔を洗い、身支度をすませ、朝食も取らずに、春風は職場へと向かった。
サロンのガラス戸を押すと、珍しく奥菜社長がフロアに降りている。
「おはようございます」
「おはよう。あら、何? その顔は」
校則違反を見つけた生徒指導の先生みたいに、奥菜はギラっと目を光らせた。
よほど、しけた面をしているのだろう。
顎から頬に向けて、ざらつく乾燥している肌に、指の腹を滑らせていると――。
「奥さんと喧嘩でもした?」
と、春風の顔を覗き込む。
「いえ、別に」
まぁ、どうでもいいわ、とでも言いたげに、奥菜は表情を明るくして控え室を指さした。
「田中店長が、配信のバックで使う映像作ってくれたのよ。とっても素敵だったわ。ちょっと確認しておいてくれる?」
「わかりました」
全く、呑気なものだ。田中はこの年末商戦でクソ忙しい最中に、睡眠時間を削って映像を作っていたのだ。それですっかり疲弊し、辞めてしまうのだ。
というのは、全くの憶測なのだが――。
「おはようございます」
言いながら控え室に入ると、目の下にクマを作った田中が「はよ」と短く挨拶をした。春風よりよっぽどしけた面だ。
「大変だったでしょう」
「こういう仕事、慣れてないからな。幸い、嫁が映像クリエイターなんていうしゃれた仕事してるからさぁ、やり方教えてもらってなんとか作ったけどな」
そう言って、ノートパソコンをこちらへ向けた。
マウスパッドを操作すると、スタイリッシュなオープニングから、ノイズ交じりのエフェクトがかかった、モノクロ映像が動き出す。
店内の防犯カメラ映像は、プライバシーに配慮してあるようで、ギリギリお客の顔は、見えそうで見えない。
「すげー!」
その映像は興奮するほどにかっこいい。
「これをバックにショーやるんですね。なんかやる気出てきましたよ」
その言葉は、もちろん田中への最大のリスペクトだ。
本音は、やりたくないし、とっとと終わらせたい。
そんな思いはもう少し心の奥に仕舞って置くことにする。
「春風。明日、ショー終わったら飲み行かないか?」
「いいっすよ」
田中は静かにうなづいて、春風の二の腕をポンポンと二回叩いた。
「見せたい物があるんだ」
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