最終話

 ◆◆◆Side―潔葉


 賽銭箱に、二人並んで5円玉を入れた。

 深々と頭を下げて、かしわ手を二回。ぎゅっと目を閉じて合わせた手の先におでこをくっつける。

「赤ちゃんが無事に生まれて来ますように」

 そう声を出してお願いしたのは春風だ。


 春風は、『結婚しよう』の返事も聞かずに『お参りしよう』と言った。

 一点の曇りもない横顔。これは一体どういう事なのだろうか?


「メシでも行こうよ」

 そう言って、潔葉のスーツケースを軽々と持ち上げて、石段に向かって歩き出す。


「春風」

 その背中に声をかけた。


「ん?」

 嘘も隠し事もありません、とでも言いたげに振り返る。


「何か私にいう事ない?」


「え? なに?」


「何か隠してない?」


「何を?」


 春風の顔が段々と強張る。


「私が何も知らないとでも思ってる?」

「なんだよ。急に」


「結婚はできないよ」


「どうして?」


「自分の胸に手をあてて、よく考えてよ!」


 春風の手からスーツケースをひったくり、ズルズルと引きずる。

 石段に向かってずんずん歩く潔葉の腕は掴まれた。


「ちょっと待てって。ちゃんと言えよ。わかんないよ」


「熱愛発覚ってなによ! 結婚秒読みですって! それでよく私に結婚しようなんて言えたわね!」


「ちょっと待てって。ネットニュースか」


 春風は観念した様子で潔葉の手からスーツケースを奪うとこう言った。


「ちゃんと説明するから、とりあえず暖かい所に移動しよう。体冷やすのよくないだろう。子供の事、一番に考えよう」


 左手にスーツケースを持ち、右手で氷のように冷たくなった潔葉の左手をぎゅっと握った。

 手を繋いだまま、無言で石段をくだり終えて、大通りに出る。

 あてなどないが、春風はカジュアルなイタリアンの店の扉を引いた。

「予約してないんですけど」


 そう言うと店員は、一見満員状態に見える店内をぐるっと見渡し「どうぞ、ご案内いたします」と店の奥に、手の先を向けた。


 ゴツゴツとした重厚感のある木材を、切りっぱなしで並べたような床を歩く。穏やかなジャズが流れていて、皆静かに、幸せそうに食事を楽しんでいる。

 そんな中、自分だけが取り残されたかのような違和感を感じながら、真っ赤なスーツケースを引く春風の背中に付いて歩いた。


 店員に促されるまま、窓側の席に腰かける。


 店員のすすめで二人分のコース料理を注文し、ノンアルコールビールで乾杯した。

 春風の様子からして、後ろめたい事はなさそうにも見える。


「ほな、説明しよか」

 喉を潤した後、春風は急に関西弁になった。


「関西弁やめて。言いくるめられた、みたいになりそう」


「そう。わかった」


 ノンアルビールの冷たさに顔をしかめた後、春風は話し始めた。

「最初に言っとく、あのネットニュースはフェイクだ」

「フェイク?」

「そう、それを今から説明する」

「うん」


「2週間前に、瞳さんが亡くなったんだ」

「え?」

「うん。それでお葬式に行ったの。津田さんから連絡もらってね」

「そっか」

「そしたら、そこで憔悴しきった恵梨香を見かけたんだ。一応喪服は着てたけど、明らかに葬儀に参列してる人とは動きが違った。だから気付いたんだけど」

「そう」

「恵梨香がネットで袋叩きにされてたのは知ってる?」

「いや、知らない」

「そっか、酷かったんだよ。自宅まで特定されて、マンションの周りには常に自撮り棒を構えたユーチューバーがうろついて。郵便で殺害予告まで届く始末で」


 けど、それは自業自得だ、と潔葉は思う。


「恵梨香は何をしに葬儀に来てたと思う?」


 捨てられた女が自暴自棄になって、捨てた男の妻の葬儀に行くと言う事は、目的は一つだ。

「津田さんに報復、とか?」

「そう。恵梨香はナイフを手に持ってた」

「マジで? 」

「まだ小さい子供もいるしさ。それで俺は恵梨香を葬儀場から連れ出したの」

「うんうん」

 まるでドラマの中のようなお話だ。


「それで話を聞いてやってたんだけど、助けて欲しいって泣きつかれて――」


「ん?」


 潔葉は急に、イラっとした。どの立場なら春風に助けてほしいなどと言えるのだろうか?

 にわかに、眉間に縦すじが入る。


「まぁ、原因はこっちだからね。恵梨香をモデルに使ったり、その後の芸能界復帰とかの話を持ち掛けなければ起こらなかった事件だからさ。奥菜さんはスタッフが大量に退職した穴埋めで精いっぱいだし。俺と店長と瞬と姫香で集まって、どうにかできないかって話し合ったんだよ」


「ふうん」


「それで思いついたのが、フェイクニュースのリーク」

「リーク?」

「目新しいニュースが入れば、マスコミも世論もそっちに食いつくだろ。そしてハッピーエンド。幸せな話題なんて長くは続かないから、桃井恵梨香はそのうち世間から忘れられる」


「ふうん。ちょっと待って!」


「なに?」


「それって、どこまでやるの? 今、熱愛発覚なんだよね? 次は結婚? そこまでやるわけ?」


「一応その予定」


「それは……、私が春風の人生にいない前提だよね?」


「そうだったんだよなー。まさか、こんなに早く子供ができるって思ってなかった」


 バン!!!

 潔葉は思わずテーブルに手のひらを、思いっきり打ち付けていた。

 真実とは、かくもバカバカしく腹立たしい。


「お人よしにも程がある! 後先って物を考えないの? 大惨事回避は必要だったかもしれない。けど……けど!! どうして春風がそこまであの女の犠牲にならなくちゃいけないの? 一般人とはいえ、あの動画は最終的に一万回再生を超えてた。一万人の人が見てたんだよ。一万人の人が、あの美容師を春風だって知ってるんだよ!!」


「潔葉、落ち着け!」


 春風は両手の平を潔葉に向けた。


「俺は犠牲だと思ってないんだ」


「犠牲じゃなかったらなんなの?」


「後始末だ」


「後始末?」


「俺は正直言うと、もう、潔葉とは終わりだと思ってた。奥菜さんとのやり取りを見てて、潔葉はやっぱり元旦那さんの事が忘れられないんだなって思った。あの時だって、ちゃんと話してほしかったし、それをせずに俺の前から強引に消えただろう。俺は潔葉にとって、それだけの存在だったんだと思ったよ。みんな少しずつ間違えたんだよ。やらなければいけない事を。俺も、そうだよ。この3年間、既婚者だと偽り続けた。それが招いた事なんだよ。今度は恵梨香が幸せな既婚者だと、世の中に嘘を吐く番だ。それは決して幸せな事じゃない。嘘を吐き続けるっていう事は本当にしんどい事だよ。いつバレるんだろう。こいつ本当は知ってんじゃないかって、びくびくしながら周りの人とも付き合っていかなきゃいけない。本当は一人で寂しいのに、いつも幸せそうに取り繕っていなきゃいけない」


「私はどうしたらいい?」


「俺を信じろ! 結婚するからには、俺の全てを受け入れろ。俺は潔葉に絶対嘘は吐かない。裏切るような事はしない。どんな事からも守る! だから何も心配せずついて来い!」


「いやいや、ちょっと待って。一つ聞いていい?」


「うん」


「恵梨香さんと酷い別れ方したじゃない」


「うん」


「恵梨香さんや津田さんを恨んでないの?」

 春風は少し笑ってこう言った。


「今となってはどうでもいいよ。あの夜、あの光景を見た時はそりゃあ地獄に堕ちたよ。けど、俺、真っ先に嘆いたのは、結婚式の費用やホテルの宿泊代、これまで恵梨香に貢いだ金、マンションのローン、それらが全部パーになったって事だったんだ。その後は、仲間や親、友達、親類にどんな目で見られるんだろうって。元グラモの桃井恵梨香を娶ったヒーローだったのが、その瞬間から常人以下だ。そんな事ばっかり考えてた。結局、誰にも言えないまま幸せな既婚者を3年間演じ続けて来た。恵梨香そのものより、それにまつわる物の方が、俺にとったら大事だったってってわけだ」


「そんなに愛してたわけじゃなかったって事?」


「そうかもな。それに、恵梨香の事は潔葉がひっぱたいてくれた。津田は自分の手でぶん殴った。土下座させた。目の前で奥さんを抱きしめてやった。それで、すっきりしちゃったんだよ」


「男って単純ね」


「女は複雑だな」

 複雑と言われたらそうなのかもしれない。潔葉の生まれたばかりの幸せは確かにあるのに、それは今にも溶けそうないびつな氷の上にあるような気がしてならない。


「もし、みんなにばれちゃったらどうするの?」


「そん時はそん時だ」


 春風はそう言って笑った。


「私は納得できない。たとえ嘘であっても春風があの人の夫になるだなんて、私はいやよ」


 春風は動じない。


「潔葉は完璧を求め過ぎなんだよ。完璧な幸せなんてそれこそ嘘っぱちだぞ」


「春風は、本当に私と結婚したいの?」


「もちろん」


「じゃあ、今すぐその計画は取りやめて。今の状況の春風と、私は結婚できない 」


「そっか。じゃあ、仕方ないな」


「仕方ないってどういう事?」


「潔葉は結局あの頃の俺と同じだ」


「はぁ?」


「形に拘り過ぎてるんだよ。結婚とはこうあるべきとか、幸せとはこういう物とか。俺を見ろよ! 結局は俺と一緒にいたいかどうかだろう! 俺を愛してるかどうかだろ!」


「ずるいよ、そういうの。春風はどうなのよ! 私と一緒にいたいと思ってるの? 私を愛してるの?」


「愛してるよ! 世界一愛してるよ! 一生一緒にいたいよ。二度と離れたくないよ!」


「私だって、ずっとずっと春風の事が好きだったわよ。春風と一緒に親になろうって覚悟決めて、実家捨てて東京に出て来たのよ! もう二度と離れたくない。愛してるに決まってるしょう!」


 パチパチパチと、店内から拍手が沸き上がった。

 ピューーーっと口笛を吹く客までいる。

 相当大きな声で口論していたようだ。周りを見回すと、店内の客の視線は、二人に集まっていて、温かい笑顔が向けられていた。


 テーブルにはいつの間にかコース料理が揃えられていて、温かな色が溢れている。


 周りに「すいません」と浅く何度も頭を下げて、二人で同じようにうつむいた。


 ――恥ずかしい。


「メシ食おうか」

 春風がぼそりと、そう言って、潔葉は取り繕うようにうなづいた。

「そうね」


 冷めかけたスープを一口すすった。

 すると、春風の後ろの席に座っていた年配のご婦人が、満面の笑みでこちらに振り返った。グレーの髪にゆるくかかったパーマは上品な艶を帯びている。

 おもむろに立ち上がり、こちらのテーブルに歩いて来た。


「よかったら、これ飲んでくださらない? ボトルで注文しちゃって飲みきれなくなっちゃって」


 そう言って赤いワインのボトルをテーブルに置いた。


「ありがとうございます」

 春風が愛想よくお辞儀をする。

「あなたたち、素敵なカップルだわ。早く結婚指輪をお付けなさい」


 そして、こんな話をしてくれた。


 結婚指輪を左手の薬指にはめる理由だ。

 利き手ではない左手の薬指は、10本の指の中で一番力が弱い。その指にお揃いの指輪をはめると言う事は、お互いの弱さを補い合い、支え合う事への誓いなのだと。


 ご婦人が席に戻った後、気を利かせた店員がグラスを二つ運んできた。

 潔葉は飲めないが、ボトルのワインを春風に注いでやった。

 カチンと音を立てて、ノンアルコールビールが入ったロンググラスと、赤いワインが入ったグラスが触れ合う。

 暖色系のスポットライトが二人を包み込み、見知らぬ人達が温かい視線を向けている。

 潔葉の目をまっすぐに見つめて春風が言った。


「明日、結婚指輪買いに行こうか」


 春風の単純さにあきれる。


「バカね。お互いの実家に挨拶に行くのが先よ」



【完】

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