第40話 決意(龍太郎視点)~7
その通りだ。彼女が刑事達に提出したのは、龍太郎が普段使っているパソコンとスマホだ。事務所との連絡や動画撮影で使ったのは両方とも香織のものだったから、いくら調べたって決定的な証拠となるものは出てこない。あるとすれば事件に関して調べた検索履歴位だ。それだけなら何とでもいい訳ができる。
当初は相手が踏み込もうと言い出す前に、自分の体調不良と高齢妊娠している妻の存在を盾に拒もうとしていた。龍太郎自身がうつ病で自宅療養中なのは、同じ階の柴田夫妻辺りから確認しているに違いないと思ったからだ。よって少しヒステリック気味に対応すれば、相手も強引な手は打ってこられないと考えたのである。
しかしそれは通じなかった。けれど香織の機転のおかげで上手く難を逃れた。といってこの手は何度も通用しない。また明日にでも来るだろう。早ければ今日の夜には来てしまう可能性もある。そうなった場合、今度はどうすれば追い返せるのか。
龍太郎達が頭を抱えていると、洋間の戸から顔だけ出した朱音が不安げな表情でこちらを覗いていた。その為背筋を伸ばし、気を取り直して言った。
「何とか帰って貰いましたから、ひとまずは安心して下さい」
「そうですか。良かった。こっちも心配ないみたい。事務所に確認したら、DMで連絡している件はまだ警察に言っていないと返答があったから。こちらとビデオ通話で使ったパソコンも任意提出するよう依頼されたけど、断ってくれたそうよ」
「よく警察が許してくれましたね」
「私が無事だと確認できただけで、事務所としては十分だと判断してくれたんじゃないかな。折角信用して連絡をくれたのだから、しばらくは事務所から出頭するよう依頼するので待ってくれと警察に告げたみたい。逮捕状はまだ出ていないしあくまで任意で容疑も不十分だから、向こうも引き下がったのでしょう。但し前回拒絶した部屋の立ち入りは、承諾せざるを得なくなったとの謝罪がありました。それでDNAが正式に検出されて逮捕状が出た場合、すぐ出頭するよう再度釘を刺されましたけどね」
それは仕方がない。これ以上拒絶すれば捜査妨害に当たる。犯人隠匿罪に問われる可能性も高い。そうなった場合は朱音本人から事務所に連絡を入れ、弁護士を通じて出頭の申し入れをすべきだ。
ただそれよりも、警察は朱音が語った事件当時の状況を動画で確認し、どう判断しているかが気になる。出来れば刑事達に探りを入れたかったけれど、話の流れやタイミングからそれは叶わなかった。
事務所がその点を何か聞いていないかと尋ねた。すると彼女は説明してくれた。
「私も気になって、証言した内容を信用してくれたのか聞いてみたの。そうしたら小学生の頃に柳畑さんと接点があった件は警察も突き止めていたらしく、矛盾はないと言っていたみたい。非常階段に連れ出した理由も納得していたらしいわ。保釈中という彼の立場から考えて、好感度の高い私を利用しようと考えた可能性は高いと思ってくれたそうよ」
「それは良かったですね」
作戦は成功したかのように思えたが、険しい表情で話を続けた。
「ただ突き落としていないとの証言は、誰も見ていない状況で確認しようがないとの反応だったらしい。それどころか物証と本人の供述で胸を突いた事実が明らかになったし、階段から落ちたと気付かなかっただけかもしれない、とまで考えているようなの」
そうなる可能性は最初から危惧していた。本人が間違いなく突き落としていないとまでは断言できなかったからだ。そこは龍太郎も警察と同じ考えだった。
それに朱音にはまだ不利な材料がある。
「警察に出頭せず事務所とも連絡を絶っていた理由について、どう捉えているかは何か言っていましたか」
龍太郎の問いに、彼女は溜息をついて答えた。
「そこはやはり理解されなかったそうよ。SNSでもその辺りがはっきりしないから、信じられないという意見が多かった。中には薬物を使用しているから、出て来られないのだろうと疑っている人もいたわ」
これも想定内だ。かつて逃走した有名人がそうだった為、今回もあの事件を連想させたとしても不思議ではない。
ただ今彼女がかけられているのは、殺人又は過失傷害致死の容疑だ。それにこれまで薬物使用疑惑を持たれた、とのゴシップ記事は見たことが無い。本人に尋ねても、三十五年の芸能生活でそうした噂は一度も流されていないという。
芸能人の薬物使用については、これまで多くの逮捕者が出ている。よって警察も朱音の周辺でそうした情報があれば、捜査線上に挙がっているはずだ。そうした気配がないのなら、時間が経てばくだらない噂はやがて消えていくだろう。
しかしそれがいつになるかは全く予想がつかない。警察が逮捕状を取り、朱音の身柄を確保して薬物検査が行われれば疑いは晴れるはずだ。自宅の家宅捜索等を今行っているのなら、少なくとも所持していないと明らかにしてくれるだろう。
ただその場合、柳畑を死に至らしめた件がどうなるかとなれば難しい判断となる。僅かな物証と状況証拠だけで過失傷害致死罪に問えるのか。姿を隠していた理由についてなら世間はともかく、出頭して事情を話せば警察は理解してくれるに違いない。
こうした
そうすれば龍太郎達は、少なくとも平穏な生活を取り戻せる。そう考えた所で、本当にそうなのかと思い直す。香織が妊娠したと分かった時点で、もう以前と同じ日常には戻れないのだと気付いた。
朱音がここから去れば、二人で毎日を過ごすことになる。そうなった場合、香織は心細いと思うだろう。今は特殊な状況に追い込まれている為、目の前にある危機をどう乗り越えようかという点に神経を尖らせていた。だからこそ三人の結束が強くなったのだ。
しかも同じ高齢妊娠という境遇の女性が身近にいる点は大きい。男では理解できないことでも、話し合える相手がいればそれだけで励みになり、心強いと思うのではないか。それは朱音にも言えるだろう。
それにもし今回の騒動が無ければ、彼女は妊娠をした事実をなかなか打ち明けられず、もっと長く一人で悩んでいたかもしれない。また龍太郎自身も、これ程容易く受け入れられたかどうかと考えれば正直疑問が残る。
朱音は長年芸能界で活躍してきたから、高所得者で貯蓄も十分あるはずだ。よって出産後における経済的な不安はないだろう。
だが彼女はシングルマザーになるつもりでいる。つまり父親がいない。さらには代わりに面倒を診てくれる母親もいないのだ。
叔母の溝口がいるとはいえ、もう七十半ばの高齢者である。将来的に頼れるのは、お金を払って来てくれるベビーシッターくらいだろう。
それでも他人には違いない。預ける幼稚園や保育園などと同じく、完全に任せっきりにするのは無理だ。しかも子供が成人する頃、朱音は六十五歳になる。
その上ただでさえ有名人の子というだけで好奇な目に晒されるのに、父親が誰か分からないのだ。よって世間から、それ相応の苛めや誹謗中傷を受けるだろう。
そういった大きなハンデがあると分かった上で、それでも彼女は産むと言うのだ。またこのような騒ぎに巻き込まれても、お腹の子を守る為にリスクを冒してまで警察から身を隠す選択をしている。これは相当な意志の強さが無ければできない。
それに比べて香織の場合はどうか。彼女と同じく面倒を診てくれる親はいない。経済的な不安は断然大きいが、その分子龍太郎と二人で子育てを分担できる利点があった。
幸いと言っていいのかは微妙だが、現在二人共ほぼ無職の為に自由な時間は十分ある。精神的な面でのハンデは否めないけれど、朱音が受けるプレッシャーを考えれば贅沢な悩みかもしれない。
それに経済的な問題は、香織の手芸と家賃収入に加え龍太郎が体調を回復させ再就職すればどうにかなるだろう。例え再就職出来なくても、二人の資産を合わせ贅沢な生活を望まなければ生きて行けるはずだ。これまでは関係なかったけれど、子供に対する公的な支援や援助だってある。
もちろん無事出産するまで気が抜けない。さらに子育てはそう容易くないだろうし、相当な覚悟が必要だと理解している。
退職してこちらに戻ってくるまでは、一人で長い療養生活を過ごしてきた。けれどその間、自分の身だけ気を付けていれば良かった点を除けば、鬱々と怠惰な日々を送っていた。
結婚してからは香織を気遣うようになったが、彼女はそれ以上に龍太郎を支えてくれている。だからここまで心身を回復させ、こうしてやって来れたのだ。
しかし子供が生まれれば、今まで通りとはいかないだろう。彼女も龍太郎以上に神経を注ぐようになる。龍太郎もそうならざるを得ない。そうなった場合、これまでの関係は完全に崩れるかもしれなかった。
けれどそれが必ずしも、精神面で悪い方に働くとは限らない。子供というかけがえのない存在によって、助けられる場合もあるはずだ。勇気づけられたり励みになったりすれば、体調の回復を促進する可能性だってある。
以前は全く考えても見なかったが、朱音によってそう思えるようになった。彼女の出現は龍太郎達にとって想定外のハプニングだったが、それ以上に大きな転換をもたらすきっかけとなったのは確かだ。
もしかすると、危機ではなく天が与えたチャンスなのかもしれなかった。それならば、彼女を裏切るような真似は出来ない。また明らかに香織は、最初から朱音を守る気だ。やはり同じ妊婦だからかもしれないが、それだけではないのだろう。
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