第21話 朱音の秘密~5

 思い出した。このマンションへ引っ越してきた三十年以上前にはついていなかったが、ある時から防犯カメラが設置されたのだ。

 けれど場所を確認した際、不十分な点を見つけそう指摘した気がする。余り記憶に無いが、まだ大学へ行く前だったから香織と会った際にそうした話題を口にしたかもしれない。

「マンションの会合でもそうした話は出たみたいだけど、住民がわざわざそんな危ない真似はしないだろうからって、そのままになったはずよ。外からおかしな人が入って来られないのならそれでいいって。両親からそう聞いた覚えがあるから」

 確かにこれまで、問題になったケースは全く無かったはずだ。それがここに来て、そうした盲点に助けられるとは思いもしなかった。

 彼女は話を続けた。

「だからまだ中にいる場合と、外へ逃げたとしても名古屋には溝口のおばさんしか頼る所がないから、戻ってくる可能性を考えているんじゃないかな」

「なるほど。さすが読書家。読みが鋭いな」

「何言っているの。龍太郎だって本当は気付いていたんじゃないの」

「いやそこまで深くは考えていなかった。言われてみればそうだ。ということは警察だって、中にいるという確信まで持っていない可能性は高いな。だったら余程の証拠が無い限り、マンション内に踏み込まれる確率も低いと考えて良いだろう」

「そうね。だけどもし本当に逮捕状が出たら、龍太郎はどうするつもりなの。朱音さんの言う通り、警察に出頭して貰うつもりでいるの」

「申し訳ないけど、それしか方法はないだろう。匿い続けるのは、彼女にとっても俺達にとっても良くない」

「そうか。そうだよね。でもなんとかならないかな」

 そこまで話し合った所で肝心の件を思い出した。

「そうだ、香織。病院へ行くのはいいけど、診察して貰ってからその後はどうする。実はマンションに朱音さんがいて、彼女を診察して欲しいとそのままお願いするつもりか。昨日も話していたけど、通報されたらそこで終わりだぞ」

 しかし彼女は首を振った。

「ううん。それはもう少し後でいいかな。今日は普通に診断して貰って、できれば次回からは二週間に一回の割合で、訪問検診をお願いできれば一番いいんだけど」

「何を言っているんだ。妊娠していなければ来てくれるはずがないだろう。それとも腰が痛いとか言って、ペインクリニックの先生に来て貰うつもりか」

「そうじゃない。この年で妊娠していれば、朱音さんと同じように訪問検診を受けてくれると思うよ」

 言っている意味が理解できず、何と聞き返せばいいのか分からないまま数歩進んだ所で、龍太郎は思わず立ち止まった。

「え? まさか香織。本当に妊娠しているってことか。いや、そんな、え、ちょっと待て」

 彼女と結婚したのだから、肉体関係を結んではいる。しかし恥ずかしながら龍太郎の病の件もあり、片手で数えられる程度しかなかった。

 それにここ最近では、いつそういう関係になっただろうかと記憶を遡る。そこで少し前にそういう行為をしたとおぼろげながら思い出した。それでもそれが最後のはずだ。

 しかも彼女は二十七歳で結婚したけれど不妊治療の末に結局子供が出来ず、三十五歳で離婚をしている。そんな彼女がこの年齢になり、その程度の確率で妊娠などするだろうか。

 もちろん世の中に絶対はない。だから結婚した当初、万が一できたらお互いに困るだろうと話し合い、念の為に避妊はしていた。龍太郎の体調だけでなく、経済的な事情を含めこれから子育てするとなれば体力的に厳しいと、彼女自身も言っていたからだ。

 けれど前回はしなかった、または失敗したのかもしれない。はっきりとした記憶はないけれど、まさかあの一回でものすごい確率を引き当てたと言うのか。

 龍太郎は香織の背中を見ていた。数歩先に同じく立ち止まっていたが、彼女は前を向いたままなので表情が伺えない。ここでこんな冗談を言ってからかうタイプではなかったはずだ。

 後ろを振り向かずじっとしている様子から推測すれば、彼女自身も困惑しているのだと感じ取れた。先々を考慮すれば様々な不安要素が沢山ある。だが目の前だけを見つめれば、何を優先しなければならないかは明らかだ。よってここで取るべき態度も一つしかない。

 一度深く息を吸い、腹に力を入れ覚悟を決めて言った。

「だったら無理をして歩くと危ないだろう。タクシーを呼ぼうか」

 そこでようやく彼女はこちらを向き、目を丸くして首を振った。

「あと少しの距離じゃない。いいわよ」

「だったら診察が終わった後の買い物はタクシーで行こう。荷物もあるし」

 香織との距離を縮め横に並んで告げると、彼女は俯いた。それから少し間を取り呟いた。

「いいの」

「ん? いいのって、何が」

 今度は顔を上げ、目を見て言った。

「産んでいいの」

 視線を逸らさず言い返す。

「何を言っているんだ。これから妊娠しているか、確かめるんだろう。していたら母子共に危険が及ばないよう注意しないと。何よりも大切なのは命だ。しかし申し訳ないけど俺にとって一番は香織で、お腹の子はその次になる。それとも中絶するつもりだったのか」

 しばらく真剣な表情で見つめ合い、沈黙が続いた。先に口を開いたのは彼女だった。

「大変だよ。本当にいいの」

「いいのって聞くのは、産みたいけど俺の了承が必要だと思っているからじゃないのか」

 躊躇いながらも頷いた為、龍太郎は続けた。

「さっきも言ったけど一番は香織の命だ。こういう場合、本当に情けないけど男は大したリスクを負わない。出産は病気じゃないが、命に危険を及ぼす一大事だろう。しかも高齢出産となれば尚更だ。香織がそれだけ腹を括っているのなら、俺はそれを全力で支える」

「でも、」

 彼女の言葉を遮り、さらに畳みかけた。

「もちろん将来について考えたら、色んな気がかりがあるのは承知の上だ。経済面で言えば俺は無職で、今は香織の家の賃料と手芸で得る収入しかない。それもいつまで続くか分からないし、二人が持つ不動産の価値も目減りするばかりだ。頼りは預貯金だけしかない」

「そうでしょ。だから、」

「待て。最後まで聞けよ。育児で大変なのはお金以外にもある。香織はともかく今の俺のような精神状態で、子供を育てられるかといえば正直自信があるとまでは言い切れないよ。といって、香織の体だけでなく心も傷つける中絶を選択するなど有り得ない。だったら俺も男として、夫としてまた父親として腹を括るしかないだろう。先の事を今悩んでも無駄だ。今出来るのは何かを考えよう。大丈夫。不安はあるけど楽しみもあるじゃないか。ネガティブじゃなくポジティブ思考でいこう。それこそ朱音さんを見習おうよ」

 先程より長い静寂が続く。龍太郎は香織の背中をさすった。それを合図に、彼女が歩を進めながら口を開いた。

「とりあえず病院へ行きましょう。答えを出すのは、正確な診断結果が出てからでも遅くないわよね」

 後を追いつつ、龍太郎は気になっていた点を尋ねた。

「ところで、いつ妊娠しているかもしれないって気づいたんだ」

「先週、かな。その少し前にちょっと違和感があったし生理も遅れていたから、念の為にと妊娠検査薬をこっそり買って試したの」

 そう言えば買い物に出かけた際、少し待っていてと言われた場面を思い出す。あの時、彼女は近くのドラッグストアへ寄っていたのだろう。

「そうか。それで陽性が出たのか」

「うっすらとね。だから確実かどうかは、診察して見ないと分からない。だって私も初めてだから」

 確かにそうだ。彼女は恐らくこれまで何度も試し、そして裏切られてきたはずである。だから陽性と出た時の驚きは、今知ったばかりの龍太郎以上だったに違いない。

 また先週からずっと一人で悩み、考えていたのだろう。そう思うと彼女の体調の変化や胸の内に全く気付かず、いつも通り過ごしていた自分がどれだけ愚かで鈍感だったのかと情けなくなった。

 香織はこれまで黙っていたのは、龍太郎の体を気遣っていたからだろう。だがいつかは確かめる為にも告白しなければならない。そのタイミングをずっと待っていたはずだ。

 その心情を想像するだけで目頭が熱くなった。そんな顔を見られないよう半歩下がって歩きつつ、あれこれ考える。

 朱音が突然現れた時には、とんでもない災難に巻き込まれたものだと頭を悩ませた。だが今となって思えば、二人にとってまたとないタイミングだったと言える。彼女は疫病神やくびょうがみでなく、どうやら福の神だったようだ。

 ならば香織のお腹の子共々、絶対に守らなければならない。その為には何としてでも訪問診察が受けられるように働きかけ、朱音も診て貰えるよう仕向ける必要がある。

 しかし赤坂という医師に正直に打ち明けても、受け入れてくれるかどうかは不明だ。まずは彼女がどういう医師かを見極めなければならない。話はそれからだと龍太郎は心の中で頷いていた。

 黙々と考えつつ歩いている間に、目的のクリニックへ到着していた。受付を済ませ、簡単な説明を聞いてから待合室の椅子に座る。名前を呼ばれるまで二人は全く会話をしなかった。周囲の空気がそうさせていたからだろう。

 当たり前だが、婦人科の待合席の周辺は女性ばかりだった。付き添いできている男性も、今は龍太郎しかいない。病院に入った時はペインクリニックもある為、高齢の男女を何人か見かけた。

 しかしやや奥まった場所にある婦人科では、一気に年齢層が下がる。ほとんどが二十代後半から三十代だ。自分よりずっと若い女性達がいる中、中年男性一人という状況はなかなか落ち着けなかった。

 コロナ禍の影響もあり、ただでさえここ最近は人が集まる場所を避けてきた。せいぜい定期的に通うスーパーやメンタルクリニックくらいだ。

 以前は月一、二回の頻度で、散歩がてら香織とランチに出かけていた。その際、女性ばかりがいる店に入った事も何度かある。しかし今感じている居心地の悪さとは全く比較にならない。初めて足を踏み入れる場所だったからか、圧倒的に気づまりだった。

 十分ほど待っただろうか。看護師から声がかかった。

「仁藤さん。仁藤香織さん」

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