第22話 朱音の秘密~6

 小さく返事をして立ち上がった彼女は、龍太郎を見て言った。

「ちょっと待っててね」

 軽く頷き、黙って応える。診察室には彼女一人で行き検査をし、その後結果が出てから呼ばれる段取りらしい。

 完全に取り残され、ますます肩身が狭くなった。何も後ろめたくはないのだが、漂う雰囲気が違ったせいだ。何故なら意外にも、大半の人が不機嫌そうにしていたからである。

 中には和気あいあいと、小声でお喋りしている女性達もいた。何度か通っている間に親しくなったのだろう。またはちょっとした情報交換をしているのかもしれない。

 けれど悪阻つわりが酷いのかだるそうにしている人や、不妊治療で訪れているからかお腹の大きい人にもの哀しい眼差しを向ける人もいた。または女性特有の病気を抱えている人がいる為かもしれない。

 全ての婦人科がこういった状況なのだろうか。それともここが緩和ケアなどといった患者も受け入れている、やや訳ありの人が多いからなのか。

 どちらにしても男の龍太郎には理解し辛い、またはできない状況に置かれた人達ばかりなのは確かだ。その為意識を逸らそうと、持ってきた文庫本を開き読み始めた。

 けれどなかなか頭に入ってこない。周りの様子だけが原因ではなかった。香織の体の心配やその後の不安もある。さらに朱音の件だって何とかしなければならない。

 そんな悶々もんもんとした時間が過ぎどれくらい経ったか分からないが、ようやく看護師に名前を呼ばれて我に返った。腰を上げ、恐る恐る診察室へと向かう。香織は既に結果を聞かされているかもしれない。ならば彼女はどう対処したのだろうか。

 妊娠している前提で考えると、お腹の子に異常はないのかが最も懸念けねんする点だ。高齢出産の為に、その後の経過も注意すべき事は多いだろう。

 入り口で龍太郎を呼んだ看護師が立っていた為、扉を開ける前に思わず聞いた。

「どうでしたか。何か異常は見つかりませんでしたか」

 だが彼女はそれに答えず、無表情で言った。

「先生からご説明がありますので、中でお聞きになってください」

 そんなことは分かっている。その前に悪い結果が出ていないか知りたくて反応を試したに過ぎない。もし何も悪い点が無ければ、看護師はもっとにこやかな顔をするはずだ。 

 しかしそうでなかった為に、嫌な予感がして足が止まる。中に入る勇気が持てずさらに尋ねた。

「何かあったのですか」

「ですから、先生がご説明します。診察室にお入り下さい」

 ややイラっとした形相ぎょうそうを見せた彼女の名札を見る。そこには寺内と書かれていた。そう言えばこの病院で朱音を担当する予定だったのは、医師の赤坂と看護師の寺内だと聞いたことを思い出す。

 背はやや高めでスラっとしている。見た目からは二十代後半のようだ。担当医は恐らく赤坂だろう。どうやらこちらの要望通り、朱音の秘密を知る二人が診てくれるらしい。

 そこで懸案けんあん事項が一つ減ったと溜息をつきつつ、意を決しドアを軽くノックした。

「失礼します」

 頭を下げながら引き戸になっている扉を開けたところで、パンと手を叩く音が聞こえた。驚いて顔を上げると香織の背中が見え、その前に椅子に座った女性医師の姿が目に入る。二人に変わった様子が無かった為、そのまま近づいた。

 名札に赤坂と書かれていた為、ここでもホッとした。後ろから続いて入って来た寺内に、香織の横の椅子へ座るよう促される。

 龍太郎が腰を下ろして医師の顔を見た。年齢は三十代後半と聞いていたが、ふくよかな体系と落ちついた雰囲気から、龍太郎達と同年代かと思うほどだった。

 そこで彼女の目が、なんとなくぼんやりとしていると気が付く。しかも黙ったままだ。早速結果を告げられるかと思っていた龍太郎は、香織に目を向けた。

 すると彼女が切り出した。

「では夫が来ましたので、診断結果をもう一度ご説明頂けますか」

 香織に促され、我に返ったかのような表情をした赤坂が、やっと口を開いた。

「はい。それでは結論から申し上げましょう。香織さんは妊娠されていませんでした」

 一瞬、何を言っているのか理解できず耳を疑った。その為質問をした。

「あの、妊娠検査薬で出た結果が、誤りだったということですか」

「はい。最近の検査薬は、精度が九十%以上と高くなっています。しかしタイミング等によって、間違った結果が出る場合もあります。今回はそうだったのでしょう。生理が遅れているようなので、念の為子宮などに異常が無いかも診させていただきました。しかし特に問題は無さそうです。単なる生理不順と考えていいでしょう。四十代半ばという年齢から考えれば、女性ホルモンのバランスが崩れやすい頃ですからね」

 香織の視線を感じて横を向くと、彼女は苦笑いしていた。

「という訳なの。ごめんね。びっくりさせちゃって。私もそんなはずないよなとは思っていたんだけど、はっきりして良かった」

「あ、ああ。そうだな」

 辛うじてそう答えたが、拍子抜けしたと言うより頭がまだ現実についていけず、ぼうっとしていた。いくつかの不安要素が無くなったのだから、心の奥底では正直安堵した部分もあったはずだ。その一方で、がっかりした気持ちが沸いていたのも事実である。

 龍太郎は複雑な心境を整理できず、ただ茫然としていた。しかし彼女は違った。赤坂に顔を近づけ、ぼそぼそと話しかけていたのだ。

 その為、どうしたと声をかけようとした時、赤坂が看護師に声をかけた。

「あなた、ちょっとそこのベッドに腰かけて」

 言われた彼女は目を白黒させていたが、さあと再び促された為に指示された通り座った。するとさらに奇妙な事を口走ったのだ。

「今から香織さんに、催眠術をかけて貰いなさい」

「はあ?」

 寺内と龍太郎の声が重なった。だが香織はそうした反応を無視し、彼女の前に立ち人差し指を左右に振って言った。

「では体の力を抜き楽にして下さい。私の指に注目しましょう」

 彼女は戸惑う様子を見せながらも、目で香織の指を追っていた。引き続き聞いた覚えのある口上が告げられた。

「あなたはだんだん眠くなる。瞼が重くなってきました。目を閉じていいですよ。はい。ではゆっくり大きく息を吸い、ゆっくり吐いてください。そう深呼吸です。もう一度吸って、吐く。徐々に体の力が抜けていきます。気持ち良くなったあなたは、深い眠りにつきます。目が覚めたあなたは、私のお願いを必ず聞くようになるでしょう。はい、眠くなってきましたね。眠っていいですよ。はい、眠った」

 驚いたことに寺内は首をがくんと項垂うなだれた。本当に眠ったのか。それより一体今から何が始まるのか。

 龍太郎が唖然としていると、香織が再び話し出した。

「では、私が手をパチンと一度叩けば、眠りから覚めます。すると非常に体が軽くなっているでしょう。ただし二度叩けば、催眠が解けます。さあ、行きますよ」

 パチンと手を叩いた瞬間、寺内はゆっくりと頭を上げた。目はぱちりと開けている。その様子を見た香織は後ろに下がり、先程まで座っていた椅子に腰かけ赤坂達と交互に目を合わせて言った。

「それでは、私からお願いがあります。あなた達二人は明日、私達のマンションへ訪問診察に来てください。そこで今日予約が入っていた、斎藤さいとうあきさんの定期検診をお願いします。もちろんこの件は他の人に内緒です。あくまで私を診察する名目で、またこの病院から来ている検診だと分からないよう、衣服などにも気を付けて来て下さい」

 龍太郎の頭の中は疑問符で一杯になった。まず斎藤って誰だ。それでも香織は真剣な眼差しで二人の顔を伺っていた。

 すると赤坂が口を開いた。

「分かりました。斎藤あきさんは確か、南ヶ丘マンションの二〇一号室で今日診察する予定だった方ですね。では明日、何時頃お伺いすれば宜しいですか」

「出来れば午前中でお願いします。空いていますか」

 赤坂は机上のパソコン画面を操作し、確認して言った。

「朝九時から一時間程なら大丈夫です。寺内さんもいいよね」

「はい。問題ありません」

 寺内も何やら手帳を取り出し答えた。香織が確認する。

「それでは明日の九時、南ヶ丘マンションの三〇三号室に来て頂けますか」

「はい。今こちらの訪問診断予定に書き込みましたのでご安心ください。仁藤さんのお宅に訪問し、香織さんを診察する名目で斎藤さんを診れば宜しいですね」

「はい、お願いします」

「ではそのように手配しましょう。受付にはこのファイルを出し、会計を済ませて下さい」

「分かりました。ところで斎藤あきさんの予約は、今どうなっていますか」

 赤坂が再びパソコンを操作し、確認した上で言った。

「通常の検診は、妊娠初期から二十三週目までは四週間に一回、二十四週目から三十五週目までだと二週間に一回、三十六週目から出産までは週に一回の受診をお勧めしています。斎藤さんの場合はそろそろ十週目で安定期に入る少し手前ですけど、高齢妊娠を考慮し二週間に一回の訪問予定となっていますね」

「でしたら、明日以外はそのスケジュールでお願いします」

「了解しました。他に無ければこれで診察は終わりになりますが、宜しいですか」

「はい、結構です。明日、お待ちしています」

「ではお大事にしてください」

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